ラグビーW杯日本大会で、スクラムの支柱として活躍した韓国ソウル生まれ、現在は日本国籍の具智元選手。「アジア最強のプロップ」と呼ばれたラグビー韓国代表の父を持ちながら高校生の頃から日本代表に憧れて、来日11年目にしてW杯で初の日本代表入りを果たすまでに、どんなドラマがあったのか。聞き手は『国境を越えたスクラム』の著者であるノンフィクションライターの山川徹さんです。(全3回の1回目/#2、#3へ)
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子どものころは、引っ込み思案で気が弱かった
――具選手は「いい環境でラグビーをやってほしい」という元韓国代表だったお父さん、具東春さんの意向で来日したそうですね。
具 韓国ではラグビー部がある大学は4つ、社会人も3チームしかありません。父も韓国の厳しい環境でラグビーを続けて、現役を引退するころにはケガで身体がぼろぼろだったそうです。それに父は本田技研(現ホンダヒート)でもプレーした経験があります。だから、ぼくや兄(ホンダヒートのチームメイトでもある具智充)には、ラグビーをやるならいい環境で、と考えたのだと思います。
それでぼくは小学6年生のときに韓国からニュージーランドに留学して、中学2年からは大分県佐伯市で暮らしはじめました。
ただ日本に怖いイメージがありました。ぼくは日本語が話せないでしょう。来日したばかりのころは平仮名も分からなかった。だから不安でした。いじめられたらどうしようと。子どものころ、ぼくは引っ込み思案で、気が弱かったですから。
――意外ですね。
具 でも、実際はみんな優しくしてくれました。ぼくが話せないから、クラスメイトみんなが気を使ってくれたり、近所の人たちも料理を分けてくれたり……。覚えているのは、クジャクですね。
――クジャクですか?
具 そう、クジャクです。大分県佐伯市の名産品でかまぼこのなかにゆで卵が入った食べものを近所の人が家に持って来てくれたんです。
中学時代は週1回2時間、個別に日本語を教えてもらえました。半年後には少しずつ話せるようになって、高校時代はテストも日本語で受けられるようになりました。
実は中学時代、1カ月だけ相撲をやったこともあるんですよ。部員が足りないから、と相撲部の先生に誘われて、試合にも出ました。大分県大会で決勝に進んで、九州大会や全国大会で長崎県や鹿児島県に遠征しました。相撲は楽しい思い出です。
――具選手は相撲で全国大会にも出場していたんですか! 力士になって横綱を目指そうとスカウトされませんでしたか。
具 それはなかったです(苦笑)。中学時代、体重が110キロくらいあったのですが、全国大会にはぼくよりも2倍も3倍も大きい選手がいました。相撲も厳しい世界なんだなという目で見ていました。それに一対一の勝負はとても緊張しました。ただ、身体をぶつけ合う感覚はラグビーと似ているとも思いました。