とんかつの勢いを示した『喜劇 とんかつ一代』
――そういえば慰霊祭というと、川島雄三監督の『喜劇 とんかつ一代』(1963、東宝)のオープニングシーンは豚の慰霊祭でしたね。全とん連も関わっていたと聞いています。
澁谷:映画の話はわたしは聞いていないですねぇ。たださっき話に出た楽天の野寺さんはご存知じゃないかな。もう80超えていらっしゃるけれど非常にお元気で、以前とんかつ連盟の集まりのときに、映画の話をされていた記憶があるんですよ。宴会でお酒も入っていたのでね、ちょっとよく覚えていないんですが(笑)。
それか、もうなくなっているお店ばかりで申し訳ないのですが、浅草「喜多八」の斎藤さんもお詳しいと思います。それと上野の「桃タロー」、いまは弟さんがなさっているけれど、そちらの長谷川さんあたりがきっとご存知でしょうね。
――あの映画は、森繁久彌演じるとんかつ屋の主人が、もともと修行をしていた西洋料理店の料理長(加東大介)に、西洋料理ほど高級ではない「とんかつ」という料理も含めて、一人前として認めてもらう、という話でした。とんかつがまだまだこれから伸びていくぞ、という勢いのあった時代だったと思います。
澁谷:そのころと比べると、いまは難しい時代になってきたとは思います。ただそれはそれとして、海外にも知られるような日本独自の料理、てんぷらや寿司などの中に、とんかつも入りつつあるのかな、という感触はあります。「とんかつ」という言葉が海外でも通じるようになってきた、そういうところに来るために100年かかるんだな、とんかつにも100年の歴史があるんだな、という思いを強くしましたね。
ハワイで2週間7000枚のとんかつを揚げました
――なるほど、海外での認知度の高さというのは、歴史や独自性、そういうものが評価されないと上がってきませんからね。しかし日本でも、ここ10数年くらいでできてきたとんかつ屋さん、高田馬場の「成蔵」さんや神楽坂の「あげづき」さん、そういうお店も最近では人気があります。
澁谷:わたしはそういう、若い方が志を持ってやっているようなお店には、まだ行けていないですね。西麻布の「豚組」さんや、チェーン店の「かつや」さん、「かつくら」さんなどは食べましたけれど。
フードビジネスという言葉だったり、「家業」がファミリービジネスという言葉になったり、そういった形でビジネスとして成り立つのであれば、多岐にわたっていろいろな飲食店になさる会社があったりもしますよね。サントリーさんが「まい泉」さんを買収したのと同じように、大企業が名店を買っていくような時代にもなってきたのかな。
そういう中でわたくしども梅林も、ハワイなど海外にお店を持ったりもしています。直営店ではなかなかできないので、パートナーさんと一緒にやっているのですが、やっぱりうちの店の味を100%再現するのは無理ですし、なかなか難しいところです。
――海外のお店だと、ほかにもいろいろご苦労ありそうですね。
澁谷:海外というと、いちど店を開く前に、ショッピングモールのようなところでイベントとして出店したこともあるんですよ。もう12、3年前ですね。わたしと職人ふたりの三人で行きました。そのときはひとりが来る肉をカットして、わたしが揚げて、もうひとりがカツ丼を作ったりキャベツを盛ってお皿をセットしたり、という形で。そのときは2週間で7000食出たのかな。もう大変な人気で。お肉がわれわれのところに届くにも間に合わないくらいでした。
――単純計算すると1日500食、それを一人で揚げたんですか! いや大変ですね。
澁谷:大変でした。わたしも最初は箸でやってたんですけど、普段やっていないじゃないですか。7000食をひとりで揚げると、恥ずかしいんですけど、もう握力がなくなってきてしまうんですよ。それでうちの職人に、このくらいの量で手がしびれてちゃあしょうがないですよ、なんて笑われてしまいました(笑)。それで結局トングを買ってきてもらって、それで揚げてましたね。
あとはフライヤーも、足の方から熱風が出てくるもので、それが直接当たってもう蒸れて蒸れて。きつかったですねぇ(笑)。
キャベツはむずかしい
――それまで実際にお店に立たれていたことはあまりなかったんですね。
澁谷:もう随分前に、2年間くらいでしょうか、立っていたことがあります。それでもキャベツを切らせてもらうところまで行かなかったですね。揚げ場もお客さまの少ない時間だけでした。混むととてもじゃないけれど間に合わなくて。
――キャベツはむずかしいですよね。下手なカッターマシンだったりすると繊維が潰れますし。
澁谷:最近はいいマシンも出てきているようですけれどね。このあたりも難しいところだと思います。