完封
真田丸を警戒してなかなか攻めてこなかった徳川軍だが、12月4日、戦況が動く。前回述べた通り、信繁は真田丸本郭の東側、空堀を隔てたところに副郭を造った。現在の宰相山公園があるエリアで、北東の端には三光神社、南方には真田山小学校がある。信繁はこの副郭から前田軍を挑発。前田軍はすぐに副郭に攻め上るももぬけの殻。信繁軍はすでに本郭へ引き上げた後だった。副郭を捨て郭にしたわけだ。そこを前田(加賀宰相)の軍が陣取ったので、後に「宰相山」と称されるようになったといわれている。宰相山の三光神社には「真田の抜け穴」と呼ばれる横穴があるが、これは真田軍が掘ったものではなく、前田軍が大坂城攻めのために掘ったものだと見られている。しかし、本気で攻め落とすためというよりは、豊臣方へ心理的プレッシャーを与えるための作戦だったと考えられている。
その後、無人の宰相山に陣取る前田軍に対して、さらに信繁軍が鐘や太鼓を打ち鳴らして挑発。これに激怒した前田軍が本郭にどっと押し寄せ、前回述べたような仕掛けにはまり、砦からの矢や銃弾の雨あられを受け、空堀の中に累々たる屍の山を築いた。さらに前田軍の突撃を抜け駆けと見た井伊軍、松平軍、藤堂軍らも我先に突進したが同じように大損害を被り、退却を始めた。
しかしちょうどその頃、真田丸近くの惣構え内の八丁目門を守備していた石川康勝隊の兵が二斗樽の火薬に誤って火縄を落として大爆発が起こった(「大坂陣山口休庵咄」)。これを見た徳川方の兵が豊臣方に忍ばせた内通者の合図と勘違いして、さらに真田丸に殺到。逃げる者と攻め進む者で真田丸の堀は大混乱に陥った。この状況を見た信繁は息子・大助や伊木遠雄に出撃を命令。真田丸から出た大助らは混乱する部隊に苛烈な攻撃を加え、甚大な被害を与えた。最終的な徳川方の主な戦死者は前田利常隊300騎、松平忠直隊480騎に加え雑兵の戦死者は数知れず(『孝亮宿祢日次記』)という、豊臣方最大の戦果が挙がった。(総戦死者は1万5000人という記録もある)。この戦は父・昌幸を彷彿とさせる信繁の見事な戦略で真田軍の大勝利に終わったのである。またしても真田にしてやられた家康の悔しがる様子が目に浮かぶようだ。
霞んでしまった長宗我部
信繁の大活躍によって不利益を被った武将が味方にもいる。「長沢聞書」には「真田丸は長宗我部盛親と真田信繁が半分ずつに分かれて防備を担当したが、世間では信繁1人が防備した出丸と風聞するようになった」と書かれているのだ。なぜこのようなことが起こったのか。長宗我部は元22万2000石の土佐一国の国持ち大名であり、一方の信繁は元大名ではあるが長宗我部とは比べ物にならないほどの小大名。あまりに格が違いすぎる。それゆえ信繁が格上の長宗我部に気を遣い、敵をおびき出して真田丸本郭に誘い込む危険な陽動作戦を買って出て、豊臣方最大の戦果を挙げた。その結果、信繁の活躍によって真田の名声は上がり、長宗我部の名前が完全に霞んでしまったというわけだ。さらにこの一件で、冬の陣以降、長宗我部軍も戦ったにも関わらず、この出城が「真田丸」と呼ばれるようになったと推察できるのだ。長宗我部盛親の心中、いかばかりだったであろう。
徳川方の調略をはねつける
ちなみに、冬の陣の最中、徳川方は本多政重や真田信尹(信繁の叔父)を使って、信繁の調略を試みている。徳川方に寝返った場合の見返りは信濃10万石の大名であったという。この話にも尾ひれが付いてさらに信濃一国を条件に出したとされるが、信濃には成立事情の複雑な大名が多く、これらを押しのけて一国を信繁に与えるというのはいくらなんでも無理があるだろう。このような尾ひれがついたのは、冬の陣以前はその実力が未知数だった信繁が真田丸攻防戦で大方の予想を覆す大活躍をしたためと考えられる。いずれにしても、信繁はこの誘いを歯牙にもかけず、即却下。いかなる事態になろうが徳川方への寝返りなどありえず、ここを武将としての最後の働き場所、そして死に場所だと九度山を出発する時から覚悟を決めていたのだろう。この武士としての潔さ、豊臣家への忠義の篤さなども、後世、民衆の間で信繁が人気を博した大きな理由の1つとなっている。
三光神社
所在地:大阪市天王寺区玉造本町14-90
連絡先:06-6761-0372
アクセス:JR環状線「玉造駅」から徒歩5分、地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」2番出口から徒歩2分
取材協力/岩倉哲夫氏、大阪観光ボランティアガイド協会