大阪明星学園のそばに建てられている真田丸顕彰碑

 いよいよNHK大河ドラマ「真田丸」も最後のクライマックスに入ってきた。ここではそのドラマのタイトルにもなっている真田丸について、歴史家の岩倉哲夫氏の解説と考察を元に詳しく紹介したい。

 大坂城は三方を川と海に囲まれた天然の要害であるが、南だけは川も山も谷もない、いわば唯一の弱点だった。ゆえに秀吉は城南に深い空堀を掘り、土塁を築き上げて、惣構えを構築していた。それでも秀吉は城南の備えに対して憂いを抱いていたという。信繁も大坂冬の陣で徳川の本隊が攻めてくるとしたらここしかないと見抜き、大坂城の惣構えの南方に出城(砦)を築くことを豊臣方上層部に進言。こうして完成したのが「真田丸」──というのがこれまでの多くのドラマや小説で描かれている「定説」だ。

 確かに冬の陣の実戦経験者が書いた後日の記録集「大坂陣山口休庵咄」には、真田丸は信繁1人の計らいで築造されたように記されているが、これには大きな疑問が残る。というのは、この地の重要性は大坂冬の陣のずっと以前から、秀吉含め多くの武将が認めるところであった。また、大坂方は冬の陣の籠城準備として、10を越える砦や、惣構えの塀・櫓の築造という大規模な工事を実施しており、地形的にも真田丸があったとされる場所に早い段階で砦を築く計画を立てていたことは十分考えられる。また、信繁の大坂入城は慶長19年(1614)の10月10日で、『落穂集』には11月15日に信繁が普請をしていた真田丸が完成したことが記されている。信繁は大坂城に入城してわずか1カ月余の間に真田丸を完成させたことになるが、そんなことが果たして可能だろうか。

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最初に任されたのは後藤又兵衛?

 しかも、複数の史料には、最初に平野口の外に出城を築くことを任されたのは後藤又兵衛だとの記述がある。例えば「大坂御陣覚書」には、「真田丸の築造は後藤又兵衛によって計画されていたが、配置換えになったため信繁に変更された」とある。別の伝承記事では、真田丸の地を任された後藤は信繁の立場を考え、持ち場を譲ったとある。この「立場」とは、信繁の兄や甥が徳川方にいたため、豊臣を裏切るのではないかという疑いを掛けられており、それに又兵衛が同情したというのだ。さらに『落穂集』には「最初は後藤又兵衛が真田丸の築造を任され、資材を用意していたところ、信繁が勝手に資材を使って自分の思い通りの縄張りで砦を築造してしまった。これが元で又兵衛と口論となったが、周囲が後藤を説得。その後、後藤の持ち場も変更された」とある。しかし、この話は信繁や又兵衛の性格や当時の状況を考えるとにわかには信じがたい。又兵衛は実戦経験が豊富で冷静で慎重であり、信繁は温厚で心配りが十分にできる性格であったことが残されている書状などからうかがえるからである。いずれにしても真田丸は信繁1人の進言で造られたものではなさそうだ(余談だが、この一件を契機に、毛利勝永、長宗我部盛親、真田信繁の三人衆に、後藤又兵衛と元々万石以上の知行で陪臣であった明石全登を加え、元大名扱いの五人衆になったという)。

 では真田丸の築城の経緯はいかなるものだったのか。大河ドラマ『真田丸』で時代考証を担当している歴史学者の1人である平山優氏は「縄張りや砦の内部の建物の構想や建設は真田信繁独自のものとしても、出丸構築の計画自体は、信繁が入城する前から大坂方の既定方針として存在したものと考えるべきではなかろうか」とし、「後藤又兵衛が責任者として初期段階の地形普請を進めようとしていたが、真田信繁が後を引き受けて縄張り変更を行い、砦内部の建物の建設を竣工させたのだろう」という説を唱えている(『真田信繁』)。真相はこのようなものだったのではないだろうか。