副郭があったとされる三光神社の境内にある「真田の抜け穴」と信繁像。信繁像はイラストレーターの成瀬浩一デザインで昭和62年に建立された。その台座の石は信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺から取り出した「真田石」

 慶長19年(1614)12月、徳川軍は20万の兵で大坂城をぐるりと取り囲んだ(30万という説も)。対する大坂籠城勢は、「大坂陣山口休庵咄」によれば全体で12万~13万。その内訳は、馬乗侍は1万2000~1万3000、徒侍は6万~7万、雑兵は5万~6万、本丸女中衆は1万とある。

大坂冬の陣、開戦

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 信繁の狙い通り、徳川軍の本隊、前田利常、伊達政宗ら3万7000人が真田丸の目前に陣取った。その後方には徳川秀忠の軍勢2万が控えている。家康はさらに後方の茶臼山に本陣を敷いた。一方、迎え撃つ真田丸に籠城したのは「(真田)父子の人数六千余人にて寵中」(「大坂陣山口休庵咄」)とあるとおり、わずか6000。しかし、後藤又兵衛配下の回想録の「長沢聞書」には真田丸は長宗我部盛親と真田信繁が3000人ずつの半分に分かれて防備を担当したと記載されている。長宗我部は元・土佐一国の国持ち大名であったから、関ヶ原の戦い以降は京都で牢人していたとはいえ、5000人の元家臣を連れて来た(「大坂陣山口休庵咄」)。一方の信繁は、第19回で解説したように約300人というのが実態である。ゆえに、信繁側の3000は、大坂入城後につけられた兵であろう。ゆえに、歴史家の岩倉哲夫氏は、真田丸を真田3000、長宗我部3000で守備していたと推定する。これが正しいとすれば、長宗我部軍は部隊を二分し、残り2000の兵をどこかの守りに割いた可能性も大きい。(ちなみに、『落穂集』には信繁の希望によって秀頼側近の伊木遠雄が付けられたとある。この理由は、豊臣方上層部にとっては、真田丸の築城と防備に五人衆の内3人までが関わっていたのが不安だったので、豊臣氏の直臣である伊木遠雄を加入させたと解釈できるだろう)。