『徳川実紀』では信繁一行が越えたとされる紀見峠

●豊臣方からの莫大な支度金

 慶長19年(1614)7月、家康が豊臣家を滅ぼすための言いがかりとしか思えない「方広寺鐘銘事件」が起こる。この時、大坂城全体の仕切り役で、14年の歳月をかけた方広寺大仏殿の建設プロジェクトや大仏の開眼法要、秀吉の17回忌の法要の奉行を務めた片桐且元は、徳川方と何度も交渉を重ねるが失敗。10月1日、家康は、諸大名に大坂追討を命令した。

 同日、且元は大坂城を退去。九度山に使者を送り、信繁に九度山を脱出して大坂城に入ってほしいと頼んだ。その際、大坂方の使者は信繁に支度金として黄金200枚、銀30貫を渡した。地元の歴史家・岩倉氏によると、現在の貨幣価値で約8億7500万円もの大金になるという(7億5000万円という説も)。このことから、いかに豊臣家が信繁を高く評価していたことがわかるだろう。

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●九度山脱出、いざ大坂へ

 九度山で長く穏やかな余生を送るよりも、もう一度豊臣家のために戦場で命を燃やすことを選んだ信繁は、九度山を脱出して大坂城へ向かうことを決意。信繁が九度山を脱出したのは、史料によると慶長19年(1614)10月9日で、大坂入城は10月10日とされている。しかし、九度山から大坂入城までのルートに関しては、一般的には信繁は九度山から紀見峠を通過したとする説が知られているが、決定的な説とはいい難い。そこで、1つの説として、この連載記事の取材協力、監修をしていただいている地元の歴史家・岩倉哲夫氏の説を紹介しよう。

 

●3つの部隊、計300人

 信繁はどのくらいの人を引き連れて大坂城に入ったのだろう。徳川方の『駿府記』や高野山側の『高野春秋編年輯録』(以下『高野春秋』)では全体として300人程であったと記載されている。しかし、真田氏側の記録「真武内伝」には130人、「真田家譜」には150人とある。これはどういうことか。

 

『駿府記』『高野春秋』によれば、300人の集団は、

(1)九度山在住の信繁とその家族・家臣、ならびに九度山周辺の旧官省符荘の荘官等(130~150人)

(2)高野山僧の集団(123人)

(3)那賀郡の在地武士等(30~50人)

の3つに分類される。

 つまり、「真武内伝」や「真田家譜」に記載されていたのは、(1)の人数のみだったということだ。しかし、(2)(3)の集団が九度山の信繁の下に参集して一緒に大坂入城したとは考えにくい。そんなことをしたら徳川方の監視に一発でバレてしまうからだ。よって、(2)と(3)の集団には、あらかじめ出発の日時が伝えられ、別々に行動し、中高野街道付近で合流して平野、岡山を経て大坂城南東の惣構入口の平野口から入城したと考えるのが妥当だろう。ではそれぞれの部隊の構成要員と通ったと思われるルートについて考察していこう。

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