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連載NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台 真田氏ゆかりの地をめぐる

第19回【紀見峠】信繁が九度山を脱出し、大坂城へ入ったルートを考察

『真田三代』 (火坂雅志 著)

2016/11/18

genre : エンタメ, 読書

note

(1)九度山在住の信繁とその家族・家臣、ならびに九度山周辺の旧官省符荘の荘官等

 19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』の慶長19年10月14日の条には、信繁が村の住民に酒を振舞って酔い潰し、その隙に九度山を脱出したとある。とみに有名な話で、これと同様な話が「武辺咄聞書」にもあり、大河ドラマ「真田丸」でも『真田三代』でもその様子は劇的に描かれている。また、信繁が宴に招いた九度山村の住民に、「大坂入城をしてしまうと住民に迷惑をかけてしまうことになるから申し訳ない」という心中を話したところ、逆に住民らが「自分たちのことは気にしないでぜひ大坂城に行ってください」と信繁に大坂入城を勧めたとの伝承もある。(「翁物語」)。しかし、これらの話は後世の人々の脚色で、住民は信繁の九度山脱出を見て見ぬふりをしていたというのが実際のところだろう。

 実際に信繁に随行したメンバーについては、妻や大助などの家族の他、高梨内記、青柳春庵らの家臣、それ以外では、九度山周辺の在地武士や村人らと考えられている。連載第16回でも触れたが、村人の中には高坊常敏、亀岡帥、田所庄左衛門、中橋長成らの名前が見られる(『高野春秋』)。高坊、亀岡、田所の三氏は、中世は在地武士団の政所一族を組織し、当時は高野山の荘園を管理していた旧官省符荘の四荘官の家であり、中橋は高野政所の別当家を称していた家である。この他にも「真田丸」や『真田三代』で描かれていたように、志願して同行した地元の村人も少なからずいたようだ(ちなみに四荘官の岡氏だけは信繁に従っていない)。

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 この信繁一行が辿ったルートだが、『徳川実紀』によると、九度山脱出後は妻子を駕籠に乗せ、橋本峠(紀見峠)を越えたとある。しかし、そもそも紀見峠は中世以来、政治的変動が起こった際には警備が固められていたことが中世史料に記されているし、戦国時代にも紀州の領主・浅野氏によって大坂と高野山を結ぶ最も重要な通路として警戒されていた。さらに徳川氏と豊臣氏の関係がますます険悪になっていたことから、紀見峠の警戒はさらに厳重さを増していたと考えられる(『武辺咄聞書』、『大日本史料』十二編之十五)。実際に長晟は高野山、九度山周辺の住民や紀見峠近辺の百姓に、信繁が九度山を脱出し大坂へ向かうことを阻止せよとも命じている(『武辺咄聞書』)。その上、当時、紀州と大和の国境付近も大和二見の大名、松倉重政によって厳重に警戒されていた。これらの事実によって紀見峠を通ったとする説は信憑性を欠くと言わざるをえないのだ。

 では、信繁らはどのようなルートを通って大坂城に入ったのだろうか。実際には、地元の旧官省符荘の荘官が付き従っているのだから、地元の住人しか知らない、目立たない裏道を通ったと考えるべきだろう。具体的なルートは、九度山から船で紀ノ川を下って中飯降村へ行き、そこから槙尾道となる四郷を通過して蔵王峠を抜けて、滝畑から中高野街道へ出たと考えられる。

 

(2)高野山僧の集団

 高野山僧については、『本光国師日記』によると、役寺院僧5人、小寺院僧7人、これに従属する者111人の合計123人。この集団は、最短の黒河(くろこ)道を通過して紀見峠を越えたと思われる。前述の通り、浅野長晟によって紀見峠が警戒されていたが、高野山の僧たち、もしくは山伏装束の者が大勢で通っても、修行中の行脚だと申告すれば怪しまれることはほぼなかっただろう。

 

(3)那賀郡の在地武士等

 那賀郡の在地武士は紀ノ川南岸の高野山と深い関係にあった。信繁に従ったのは、旧荒川荘官の奥氏、平野氏、旧吉中荘の中氏など総勢30~50人。この集団は紀ノ川を渡り、岩出を経由し、風吹峠を越え、徳川方の大名を避けるため、中高野街道方面へ迂回して大坂城に入ったと考えられている。

 

 この3つの集団は別々に行動して中高野街道のある地点で合流して約300人で平野、岡山から平野ロあたりで大坂入城を果たしたと考えられる。彼らが別々に越えたとみられる和泉山脈の道は、高野聖や葛城修験者がよく通っていた道である。ゆえに、『徳川実紀』や「武林雑話」に記載されているように、信繁たちが山伏姿で大坂に入城したというのは本当だったのかもしれない。

『高野詣』(河内長野市立郷土資料館刊、2007年)から引用した図に加筆

 ちなみに、信繁の大坂入城を聞きつけた信之の家来の中には、大坂城へ行ってはならぬという命令を聞かずに信繁のいる大坂城へ馳せ参じた者も何人かいるという。こういう家来がいたことや、高野山の僧侶や在地武士、村人など家臣以外にも信繁に随行した者がたくさんいたこと、徳川の監視の目をかいくぐり、九度山から大坂入城を果たせたことなどから、信繁がいかに多くの人から愛され、尊敬されていたかがわかるだろう。

 こちらも余談だが、信繁たちが九度山を抜け出して大坂城に入ったことは、10月13日に高野山行人方の文殊院応昌によって三河にいた金地院崇伝に通報され、これが京都所司代の板倉勝重に報告されている(『本光国師日記』一三)。信繁が大坂入城したのは10月10日で報告が3日も遅れているのは、高野山行人方の僧が徳川から通報の任を負わされたため義務的にしたもので、信繁の大坂入城を積極的に阻止する意図がなかったことを示すものだろう。