真田丸の名称
ところで、冒頭から大坂城の惣構えの南東、平野口に造られたとされる出城のことを「真田丸」と呼称しているが、最初からそう名付けられていたわけではないようだ。真田丸と呼ばれるようになったのは、大坂冬の陣以降。この出城の担当となった信繁が大きな戦果を上げたためだと考えられている。当時の名称は定かではないが、築城された場所から「平野口出丸」というふうに呼ばれていたのではないだろうかというのが岩倉氏の説だ。
真田丸の真の姿
なにはともあれ、信繁が後に真田丸と称される出城を築いたというのは間違いなさそうだ。では真田丸とはどこに築城された、どのような出城だったのだろうか。大坂冬の陣の後、徳川方によって徹底的に破却されたため、その痕跡がほとんど残っておらず、明確な場所や構造については長い間謎に包まれていた。しいていうならば、「遷台武鑑」や「永青文庫」の絵図や、『武徳編年集成』下巻にある「其形初三ノ新月二似タリ」という記述から、大坂城の惣構え南の平野口に密着した、半月形の馬出し曲輪を拡大したような出城と考えられていた。これは武田氏系の城郭によく見られた形状である。
しかし、近年、城郭研究者の坂井尚登氏らの研究によって新たな真田丸の姿が浮かび上がってきた。その真の姿とは、平野口に密着した馬出し曲輪の形状ではなく、大坂城の平野口門の南方に築城された、独立した四角形に近い形の本郭とその東部にある副郭からなる二郭構成の出城というもの。浅野文庫蔵の『諸国古城之図』所収の「摂津真田丸」の図などを使用した考証結果によって明らかになった。
真田丸が築かれた場所
もう少し詳しく解説すると、真田丸の本郭が築かれた場所は大坂城の平野口門の南方、東八丁目門の東の惣構えから幅200メートル強の谷を隔てた高台。大坂城からは完全に孤立している。現在の場所でいうと、大阪明星学園の敷地を中心に、東には心眼寺・興徳寺・大応寺、南西の角には円珠庵が建つ一帯だと考えられている。