いまから190年前のきょう、1827年3月29日、その3日前に56歳で死去した作曲家ベートーベンの葬儀が、オーストリアの首都ウィーンで行なわれた。

 ベートーベンは前年の秋頃から腹水がたまり始め、12月からこの年2月までにそれを抜く手術を4度受けた。しかし容態は悪化の一途をたどり、3月23日には自らの死期を悟って、友人たちに「友よ、拍手を――喜劇は終わりぬ!」と言ったと伝えられる。そして同26日の午後、春雷のとどろくなか、半身を起こし、右手を振り上げたかと思うと、やがて倒れ、そのまま息絶えたという。

「喜劇は終わりぬ!」 ©getty

 難聴で知られたベートーベンは、死後、外耳から内耳まで切除して聴覚障害の原因が調べられたが、結局わからなかった。28日には、デスマスクが採られるそばで、友人らが、葬儀を翌日の木曜午後3時からと決定。当日、ベートーベンの棺は住まいからドライファルティヒカイト寺院まで運ばれ、宗教儀礼が執り行われたのち、ベーリング墓地に埋葬された。この葬列には、ウィーン在住のほとんどすべての作曲家が参加し、棺を担いだり、松明(たいまつ)を掲げたりしながら付き添っている。

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 葬儀当日には、大勢のウィーン市民もベートーベンの死を悼んで集まり、彼の家の前の広場を埋めつくした。出棺の際には騎馬隊の出動を要請する騒ぎとなり、付き添った人々も群集ももみくちゃにされた。この日は小学校さえ休校となったという。折しもオーストリアでは宰相メッテルニヒが反動体制を強化し、言論や集会の自由が抑圧されていた時代だった。共和主義者でもあったベートーベンの葬儀は、期せずして「民衆の祭り」となったのである(青木やよひ編著『図説 ベートーヴェン 愛と創造の生涯』河出書房新社)。

シューベルトも参列 ©getty

 なお、ベートーベンを師と仰いだシューベルトは、亡くなる1週間ほど前に彼を見舞い、葬儀にも参列している。ベートーベンの死と前後して、歌曲の代表作となった「冬の旅」に着手し、翌年11月に31歳で亡くなるまでに完成させた。そのシューベルトは、遺言によりベートーベンの墓の横に埋葬される。後年、両者の墓はウィーン中央墓地に移され、現在はブラームスなどとともに眠っている。