いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす
別に目隠しをして適当にタイピングしたわけではない。かな入力モードのままローマ字入力をしようとしてしまったわけでもない。これは「いろは歌」である。「いろはにほへと」と言い換えれば、知らないという日本人はほとんどいないだろう。全文を暗唱出来る人も、きっとたくさんいるはずだ。しかし「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず」という、ちゃんとした意味を持った今様調の歌であることまで知っている人になると、ぐんと減るのではないかと思う。「イロハニオエド」ではなく「イロハニホヘト」と発音すると思い込んでいる人の方が多いかもしれない。ちなみに北海道料理が売りの「いろはにほへと」という居酒屋チェーン店があるが、店名のアルファベット表記は「IROHANIHOHETO」である。昔は今でいう歴史的仮名遣いを用いており、濁音に点々をつけなかった。「と」をトと発音するかドと発音するかは、そのときの文脈によって読み分けていたのである。なんでそんなことが出来たかって? 現代人だって「はい!」という返事はハと読んでいるのに「こんにちは」という挨拶はワと読んでいるでしょう? 同じことです。
時代に応じて言葉が変化するなんてのは普通のことなのだが、いろは歌だけは意味不明な呪文に変わり果てた現代に至ってもなお、広く世に浸透し続けている。なかなかの奇跡だ。それはたぶん、このいろは歌がみんな大好きな「言葉遊び」に他ならないからだろう。このいろは歌というのは、四十七音のひらがな全てを一字ずつ使い、かつ一度使った字は二度と使わないというルールを定めて考え出された文章なのである。試しにもう一度、ゆっくり読み直してみてほしい。同じ字は二つと出てこない。
英語でも26字のアルファベットすべてを一字ずつ使って文章を作るという遊びがあり、「パングラム」と呼ばれている。必ずしも一度使った字は二度使ってはいけないというわけではないが、そういうルールで挑戦したものは「完全パングラム」と呼ばれる。いろは歌も、「完全パングラム」の一種というわけだ。たぶんロシア語にもアラビア語にもハングルにも同じような遊びがあるのではないか。中国語だと難しそうだけど。
日本語でパングラムが作られるときは、いろは歌という偉大すぎる先達の存在もあってか、完全パングラムへの志向が強い。完全パングラムの成功者は英語圏のパングラマー(そんな言葉があるのかは知らないが)から尊敬の眼差しでみられるのだが、「完全パングラムで当たり前」という日本の風潮はかなり特殊である。パイオニアがいきなり完成しすぎていて、その後のハードルがインフレ的に高くなってしまった例だ。イチローの後にメジャーリーグへ渡った日本人野手たちを思い出させる。約50字という字数設定が絶妙なのかもしれない。26字だとまともな文章を作ること自体が難しいけど、50字だったら十分だもんね。ちなみにそんなパングラムの頂点、英語の完全パングラムの例を一つ紹介してみる。
The quick brown fox jumps over the lazy dog.
(すばしっこい茶色のキツネはのろまな犬を飛び越える。)
全てのアルファベットを一行で参照することが出来るため、タイピングの試験やフォントのサンプルにこのパングラムがよく使われている。英語圏ではいろは歌並みに有名な一文なのである。日本語でも秀逸なパングラムを考え出して商標登録しておいたら、フォントのサンプルに使われて小金を稼ぐことができるかもしれない。