桜には東京タワーが似合うと思い込んだのはなぜだっただろう。青空を背にのっそりと立つ、全身真っ赤、展望台は白に塗った東京タワーは、考えてみれば紅白幕と同じカラーリングだ。錦絵や舞台の背景で何度も見た桜と紅白幕の組み合わせが頭のどこかに刻み込まれていて、だから両者が似つかわしいと思ったのだろう。その馬鹿馬鹿しいほどの天晴(あっぱれ)感は、フランス人みたく、おしゃれな焦げ茶色で塔を塗れない、日本人の美意識なのだろう。
時あたかも桜の見頃。東京タワーと桜の花を見ながら食べるのにうってつけのパンとは。銀座木村屋の桜あんぱん? それも悪くないが、ここは私にまかせてほしい。東京タワーの近くにすごい店がある。
昨年オープンした「コメット」。私がもっとも注目する若手のパン職人、小林健二さんの店だ。小林さんは、世界のベストベーカリーともいわれる、パリの「デュ・パン・エ・デジデ」で長く勤めていた。
小林さんの作るものは、パンを支配する物理法則さえ超えるかのような迫力がある。パンをふくらませるパワーの源は、麦の中に含まれるでんぷん(糖)。多くふくらませればそれだけ糖を消費して、味にまわる分がなくなって味気なくなる。小林さんはその反比例関係のぎりぎりを突いて、「こんなに味わい深いのにやわらかい」という奇跡のような一瞬を垣間見せてくれる。
それがよくわかるのが、小麦と塩と水という単純極まりない素材で作られるバゲット。フランス産小麦らしさをマックスで引き出した、輝くばかりの甘さ。なのに中身ももっちりとしてぷにゅんと歯を撫でてくる。溶けてなお、じんじんと麦のフレーバーが舌を脈打たせるのだ。
こんなお花見にはこんなパンを!
では、お花見のシチュエーション別に、コメットで買うべきパンを紹介したい。店名と同じ「コメット」は、この店のシグネチャー的存在。座布団みたいにでっかく焼いたパン。これをレジャーシートの中心に鎮座させ、大勢で切り分けつつ食べていけば盛り上がりそうだ。
ここで異論が挙がるかもしれない。うちの花見は、日本酒と、つまみも和のお惣菜だからパンは合わないよと。そういうときこそ、コメットが活躍する。このパンには米ぬかが加えられ、国産小麦と相まって和のフレーバー。だから、日本酒に合う。落語『長屋の花見』でお金がない長屋の住人たちが、卵焼きに見立ててたくあんを持っていくシーンがあるが、まさにうってつけ。コメットには漬け物が驚くほどいい相性なのだから。
デートなら、「エスカルゴ」。クロワッサン生地を円盤状にぐるぐる巻いた甘いパンだ。外側がざくざく、桜吹雪さながらにはらはらとパン屑が舞う。中は反対にフランス産バターでしっとり濡れて甘い。生地のあいだにはイタリア産ピスタチオペーストが塗られ、強烈なフレーバーを発する。ときどき舌に当たって溶けていくチョコチップが抜群のアクセント。
1個のエスカルゴを2人で食べる。くるくる巻かれたクロワッサンをほどきながら分け合っていく。交互に食べあって、いちばんしっとりとしていちばんピスタチオも濃いおいしい部分は彼女にプレゼントする。
一人なら。春爛漫の中、バゲットのすごさに黙々と向き合うのがいいだろう。まず青空に向かって、長いバゲットをかざし持つ。東京タワーと並んでバゲットが天を指す天晴な様を眺める。十分眺め終わったら、天を向いていた先端を口に入れ、豪快にがぶり。皮のばりばり感、香ばしさ、甘さ。パリでパン屋を出た瞬間にバゲットを齧るあの幸福をほうふつとさせる。そのとき意識はトリップ、東京タワーはエッフェル塔に変わってしまう、かもしれない。
コメット
東京都港区三田1-6-6
03-6435-1534
10:00~19:00(日月休)
https://www.facebook.com/boulangeriecomete/
写真=池田浩明