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なんとなくじんわりと、自分は人とはうまくやっていけないというのがありました

瀧井朝世

――学校に馴染めなくて、小さい頃からすごく本を読まれていたんですよね。小学校低学年の頃に『罪と罰』を読んだとおっしゃっていましたよね。優秀な子供だったんだなあと。

白石 早熟だったんです。でも最初だけすごく優秀で、どんどん追いつかれていったんです。結局時間が経てば、みんなも私と同じように『罪と罰』を読めるようになるわけですから。単にスタートがはやかっただけです。だから、追いつかれることは肌で知っていますね。

 私、小学校に入学して最初にみんなに話したのは、「核戦争になったらどうしよう?」だったんです。そうしたらみんな「核戦争」という言葉自体を知らない。となるとすごく孤立する。そして4年生くらいで追いつかれるんですよ。いずれにせよ誰と口をきいても、お互いに面白くない。そのへん自分はすごく不幸だったんじゃないかと思う。だから学校社会にはなんとなく違和感があります。年の離れたお兄ちゃんとかがいたらよかったんですけれど。双子の弟はわりと普通で私だけませていたんです。

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 その頃からなんとなくじんわりと、自分は人とはうまくやっていけないというのがありました。その感覚が還暦近くになった現在も抜けないですね。だから、人前で何か話す仕事は全部断っているし、対談の仕事もほとんど引き受けていない。自分自身の身辺情報を出さなくてはいけないエッセイというものも一切書かない。最初は文学賞も断っていたんですよ。その理由の半分は、おそらく自分が受賞するだろうとは思っているわけですが(笑)、受賞するとみんなの前で受賞の挨拶をしなきゃいけない。それがどうしても嫌だったんです。

――じゃあ、山本周五郎賞や直木賞を受賞された時の記者会見の場合は……。

白石 まな板の上の鯉でしたよね。もう本当に死んだ気で「これをもらわないと飯が食えないから」と必死に自分に言い聞かせて(笑)。私ね、文藝春秋に入って『週刊文春』編集部で現在は執行役員をやっている鈴木洋嗣っていう男とすごく仲良くなったんです。彼は私がカラオケ歌わないのを知っていて、作家さんや会社関係の人たちとカラオケに行って「全員歌え!」となった時も「イッちゃんは歌わないんで、僕が歌います」って二曲歌ってくれて……。そんなヨウちゃんが結婚式を挙げることになった時、イッちゃんは事前に挨拶を頼んだら絶対に断ってくるだろうと考えて一計を案じたんです。当日の会場で突然、ホテルの係の人がテーブルにやってきて「白石さん、ご挨拶をお願いします」って。もう、彼の気持ちも痛いほど分かるでしょう。こうまでして頼まれたのならやっぱりみんなの前に出て話さなきゃと思ったんだけれども……断った(笑)。

――ひどいじゃないですか!!!!

白石 友達として許されないですよね。私、文藝春秋によく就職できたなと思ってます。だって大学も行くに行けなくて、お酒なんて全然飲めないのにカティサークっていうウイスキーをアパートの玄関に置いといて、いつもコップに半分くらい飲み干してから行ってたんです。就職する気もなくて、ただただ小説を書いて生きていけたらいいなと夢想してばかりいました。

――そもそも、小説を書いてそれを世に出すということは、ある意味自分を世間にさらすことでもありますよね。白石さんはお父さんが作家の白石一郎さんだったということもあって作家という職業に抵抗はなかったかもしれませんが、そのあたりは自意識との葛藤はなかったのですか。

白石 とにかく小説家にはどうしてもなりたかったんです。受賞の挨拶とかが絶対に嫌だっただけで(笑)。

――小説を書き始めたのはいくつくらいからですか。

白石 19歳くらいから書いていたんじゃないでしょうか。学生時代から『群像』や『文藝』に応募していました。『オール讀物』にも出しましたね。

――あ、じゃあ純文学とエンタメといったジャンルにこだわりはなかったんですね。

白石 全然ない。とにかく19歳で小説を書いたら、書くのが死ぬほど面白かったんです。「世の中にこんな面白いことがあったんだ。生まれてよかった」みたいな感じだったですね。生まれて初めて書いた小説も、「残像」というタイトル以外は何も考えずにえいやって書き出して、三日三晩かけて250枚も書いたんですよ。もう細部は憶えていませんが、とてもロマンティックな小説だったと思います。その1行目を書いた瞬間からたまらなく面白くて、それこそ麻薬のような快感で、あっという間に大学には行かなくなって、家で本を読むか小説を書くか、みたいになっちゃいました。

――文藝春秋に入社してからも、小説は書き続けていたのですか。

白石 書いていました。さすがに『週刊文春』に配属されてた時は、当時、地方出張も多かったですし、自分で記事を書くようになったりして、小説を書くことはできなかったですね。それを3年半くらいやった後で『諸君!』という月刊誌に移ったんです。その途端からまた書き出しましたね。