本当に作家になって初めて書いた長篇『私という運命について』
――発作に関しては、少しずつ改善していったという感じでしょうか。
白石 これが限界だと自分で自分に呪文をかけた瞬間に身体にものすごい変化が起きたのと同じように、明らかによくなったと感じられる瞬間がありました。
私の場合は、その頃、眠る時でも発作を警戒していたんですよね。で、最初の発作が起こった朝の4時から5時の時間帯に近づくと、もう寝られなくなるんです。3時31分になるとこのまま寝床に入って寝つけなくて4時を越えたらヤバいと思ってしまって寝られない。そのうち「一度だけだから」と思いはじめるんです。高いところから飛び降りたら一回きりだ、そこで死んでしまえばもうこの恐怖からは解放されるんだと考えて「早く死にたい、早く死にたい」って思うようになるんです。それで、3時29分に「もう死ねばいいんだから、もう死ねばいいんだから」って念じていると、4時までに眠れるんです。
そういう状態が1年半くらい続いたある日、また例によって「早く死ねばいいんだ、早く死ねばいいんだから」って念じていたら、ふっと思ったんです。「俺はこんなみじめな姿のままで死んでいいのか」って。
当時は小学校からの同級生に頼んで一緒に住んでもらっていたんですけれど、彼は2万冊以上の蔵書があったので千葉の外れの幽霊屋敷みたいなところを借りて、私はその一室だけ使って、お金も家財道具も何もなくて、原稿を書くしかない状態で暮らしていたんです。それで、ある時ふっと「こんなみじめな状態で死ぬなんて、あんまりだ」と思ったんですよね、本当に。そこから徐々によくなっていったんです。
いまでも、その気持ちがずっと残っているかというとそうでもないかもしれないけれど、でもあの瞬間にそういうふうに思ったというのはものすごく大きくて、そこだけは鮮明に憶えている。はじめて、自分は死にたくないって思ったんです。あれは得難い経験でしたね。
もうひとつは、親子で鬱病だという友人がいたんです。その彼が、私が会社に復帰した直後に会ってくれたんですよね。彼も大学生の息子も鬱で大変なんだって話をしてくれたあと、私の顔を見て「白石さん、これ以上悪くなることはないからね。時間はかかるかもしれないけれど、ちょっとずつよくなっていくよ」って言ってくれたんです。それを耳にしたとき、どういうわけだかすうっと彼の確言が胸に沁み込んでいくのを感じました。その効果はすごかったです。彼は何気なく言ってくれただけだと思うし、それ以来、全然会っていないけれど、このときの言葉は本当に残っています。いつも何かが怖くなってくると、ふっと浮かぶんです。「これ以上悪くなることはない」って。
――『草にすわる』(03年刊/のち光文社文庫)を出された時に会社を辞めたのですか。
白石 あれを雑誌に発表して、それから辞めました。実は会社にいる頃から食えなかったんです。私は家を飛び出したので給料は全部女房の持っている通帳に振り込まれている。それで女房に手紙を書いて「月15万円だけ送ってください」と伝えたら、その通り15万円だけ送ってくれていたんです。だけど実際は、無理を言って同居して貰った同級生と大きな家を折半で借りているから家賃だけで12万円もするので、まったく生活できないんです。当時は煙草を買うお金もなくて、お昼ご飯ももちろん食べられませんでした。いつか自分にも煙草を二箱一緒に買える日が戻って来るだろうかって思ってましたね。だから小説を書くしかない。『草にすわる』はデビューしてからはじめて書いた小説で、なんとか長くして160枚にまでした。長ければ長いほどお金になるわけですから。八木重吉の「草にすわる」という詩からタイトルをとっているんです。資料室で彼の全集を読んだら素晴らしかった。すごい人生送っているんですよね。結核で二十九歳で亡くなっていますが、二人の子供も彼の死後、やはり結核で亡くなっています。
月に15万円しか入らないので、小説を書かないと食べられない。それで光文社の大久保雄策さんに電話をかけて「家賃が払えないから何か書かせてくれ」と頼んで書かせてもらったんですよね。「いいですよ。すぐ『小説宝石』に載せましょう」って言ってくれて、それで取りかかったんです。はじめてお金を稼ぐために書いたのが『草にすわる』でした。あの時に、作家っていいなって思いましたね(笑)。その後の『見えないドアと鶴の空』(04年刊/のち光文社文庫)は『すばる』で佳作を貰ったものを膨らませたんです。やっぱり新作を書くだけの体力と気力がまだなかった。父が病気になったりして、そっちで大変でしたし……。
――では、その後の『私という運命について』(05年刊/のち角川文庫)はどうだったのですか。これはロングセラーになりました。
白石 あれは本当に作家になって初めて書いた長篇ですよね。会社を辞めた一番の理由は父の看病だったんです。弟が一生懸命やってくれていたんですけれど、もう自分一人じゃ難しいということになって。父は「とにかく生涯文春に勤めておけ。作家みたいな人間は俺一人でいいんだ」という人で、私が小説を書いたことも、表向きは苦虫噛みつぶしているわけですよ。読んではくれていたんですけれど。だけど、弟一人に任せるにはとても手が足りないというので、会社を辞めて、家族みんなで父が入院していた横浜の病院の近所のホテルに泊まって、毎日父の世話をしていました。そのホテルで書いたのが『私という運命について』です。
――一人の女性の人生の流転が綴られていく話です。この後、女性主人公の作品が非常に多くなっていきますよね。
白石 当時、今後も小説が書けるかどうか本当に自信がなかったんですよね。どうせ書けないかもしれないんだったら、普通だったら絶対にやらないことをやろうと思い、女の人を主人公にしたんです。化粧ひとつしたことがない男の私に女性主人公なんて書けるわけがないと思っていたんですが、書き出してみたら意外なほどにやりやすかった。それで味をしめたんです(笑)。すらすら書けちゃって。その後は気をつけないと全部女の人を主人公にしちゃいそうだから、今回の『光のない海』などは意識的に男性主人公にしました。
なぜ書きやすいかというと、女の人を主人公にするということは、必然的にキーパーソンは男ということになるわけじゃないですか。男の人を主人公にすると必然的に女の人がキーパーソンになるけれど、でも、私は女性のことなんてほとんど分からない。ところが女の人を狂言回しみたいな形で主人公として据えると男の人を書くことになるので、これは幾らでも書けるわけです。男のことはやっぱり分かる。びっくりしましたね、あまりに書きやすいんで。
また、妙な話なんですけれど、女の人のほうがいろんな意味で自由だと感じたんです。男の人の話を書こうとすると、作中の主人公が社会に雁字搦めになるんですよね。男性は社会化していくことを強いられる性なので、彼らの精神にはある種の偏りが自然に生まれてしまう。もちろんそれが男性にとってのリアリティーにもなっているわけですが、それに比較して、女の人って思うこととか行動することが案外自由じゃないですか。パッと会社を辞めたりするなんてことは、男の人の場合よりもずっと決断させやすい。今でも女性は書きやすいですけれど、でも全然女の人のことは分かっていないですね。『私という運命について』を読んでくれた女性たちからは、「どうして男の作者なのにこれほど自分たちのことが分かっているんですか?」とよく訊かれることがあって、そういうときは「いや、そうですかね」なんて調子を合わせているんですが、でもやっぱり、女性のことはいまだに全然分かっていませんね(笑)。