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看病する市原さんの覚悟

 14年3月に、塩見さんは手術のため都内の病院に入院した。彼の姪である久保久美さんが語る。

「『手術に立ち会いましょうか?』と申し出たら、夫婦2人して『いやいや、いらない。大丈夫だから』と平気そうにしていました。でも、いざ手術が近づくと、伯母(=市原さん)から『ちょっと心細くなっちゃって。来てくれる?』と電話がかかってきた。手術中も伯母と一緒に病院の食堂にいましたが、『こうやって話していると少し気が楽になるわ』、『最近私たち、くだらないこと言ってよく笑うのよ』と言っていた。いつも寄り添ってきた夫婦だから、この時は伯母も心配だったと思います」

 久美さんによれば、闘病中の塩見さんは気丈に振る舞っていたという。

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「伯父はリハビリで廊下を歩く時は私の肩を借りるくせに、ナースセンターの前だと急に背筋をシャキンとして歩き出すんです(笑)。その姿を見て、伯母と一緒に『なにいいカッコしてんの?』と笑いましたね」

 だが実は、そんなほほえましい場面の背後には、看病する市原さんの悲壮な覚悟があった。後年、彼女はこう語っている。

©︎文藝春秋

「看病の時は、『日常でいよう、日常でいよう』と努力しました。最後まで、『緊急事態だ』という雰囲気を、相手にも絶対感じさせないように接していました。

 塩見が疲れたら『休んだらいいわ』と言い、食べられなかったら『これなら食べられるでしょ?』と言ってあげる。その言い方も、みんながビックリするほど穏やかに、普通にしていました」

「死ぬと思ったかな、思わなかったかな」

 ところが、術後10日も過ぎて安心しかけたところ、突然、危惧していた持病の間質性肺炎が悪化した。主治医に呼ばれ、見せられた塩見さんの肺の写真は、真っ白だったそうだ。

 京都から駆けつけ一緒に付き添っていた、塩見さんの妹の槌田洋子さんが語る。

「主治医からは『(3日後の)月曜日には死にます。その時は苦痛を軽減するよう、眠らせます』と告げられました。その瞬間、悦ちゃんは声が出なかった」

 月曜日の朝─―。塩見さんは「息が苦しい。なんとかしてくれ」と看護師に訴えた。それを聞いた市原さんは洋子さんと廊下に出て、「洋子ちゃん、あれ、今なのね?」と聞いた。「うん」と答えると、市原さんは洋子さんの肩にすがり、堰を切ったように「わあわあ」大声をあげて泣いたという。