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心が温まる「泣ける話」

2020/01/03

 しかし、年が明けて1月5日に症状が悪化して再入院。7日には、友人のミッキー吉野さんが病室に見舞いに訪れた。ミッキーさんが、今週テレビの音楽番組に出演するんです、と伝えると、市原さんは、少し呂律はまわらなくなっていたが、しっかりとした声で、「心臓に突き刺さるような演奏してね」と言った。

 市原さんの心臓が、ついにその鼓動を止めたのは、その5日後の2019年1月12日午後1時31分のことである。

 亡くなる前の4日間、市原さんの心臓は、普通の人の2倍近い130から140もの心拍を打ち続け、実に強靭な心臓だと、医師を驚かせた。まるでマラソン選手のような持久力だった。

 マラソンを観るのが好きだった市原さんは、以前こんなことを話している。

©︎文藝春秋

「私は、マラソンで言ったら、トップじゃなくて、中間あたりを走っているタイプ。でも心底好きだったら、常に真ん中くらいの順位でも、ひたすら、どこまでも走っていけるのよ」

 走り続けたまま、市原さんは向こうの世界に行ってしまった、と思った。市原さんの顔は、両手にすっぽりおさまってしまうくらい、小さく見えた。

空中を自由に舞い踊る天女

 1月18日は朝からよく晴れ、とても寒い日だった。

 青山葬儀所の祭壇は森の中のように緑があふれ、中央の白い胡蝶蘭の上で、市原さんが柔らかくほほえんでいた。無宗教なので、読経の声も流れず、線香の匂いもない。両側の大きなパネルには『家政婦は見た!』の名場面が映され、生涯、戦争をくり返してはならないと強く願っていた市原さんが、反戦の祈りをこめて朗読した『ちいちゃんのかげおくり』の録音の声が会場に響いていた。

 市原さんはきれいにお化粧され、棺の中で静かに眠っていた。中学時代の恩師、岩上先生も車椅子で参列した。献花のとき、岩上先生は、花に埋もれた市原さんの顔をさすりながら、「悦ちゃん、もうすぐ僕もそっちに行くからね、ちょっと待っててね」と話しかけていた。