徳岡孝夫さんと中野翠さんが合計40本のエッセイを寄せた『名文見本帖 泣ける話、笑える話』(文春新書、2012年刊)より、心揺さぶられる「泣ける話」を特別公開。今回は中野翠さんの「南の島に雪が降る」です。

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 最初に読んだのは15、6歳の頃だ。確か夏休みだったと思う。退屈して、ふと父の本棚にあった『南の島に雪が降る』を手に取った。装丁が当時『週刊新潮』の表紙でおなじみの谷内六郎の絵であったこと、著者が子ども心にも何演(や)っても巧いなあと感じさせた俳優・加東大介だったこと。それで、戦争の話らしいとはわかっていたものの、何だか面白そうな匂いを感じて読む気になったのだと思う。

 読み終わった時には涙ボロボロになっていましたね。その後、今に至るまで3、4回読み返していて、そのたびに新しい発見や感慨が加わるものの、同じように涙ボロボロになってしまう。

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『南の島に雪が降る』は加東大介が実際に体験した、いっぷう変わった従軍記だ。

 前進座の役者であった著者が応召したのは、すでに形勢が悪化していた昭和18年の10月だった。著者は、大阪の中座での『新門辰五郎』を最後の舞台として入隊する。その時の様子が、まず、泣かせる。

家族とくつろぐ加東大介氏 ©文藝春秋

『新門辰五郎』の大詰。マトイ持ちの彦造役の著者は、辰五郎役の中村翫(かん)右衛門(この人は凄い名優だ。戦前の山中貞雄監督の映画を見て私はその味わい深さにシビレた。今の中村梅雀のおじいさんにあたる)たちが居並んでいる中、下手(しもて)にいる男が火事装束の彦造にマトイをポーンと放る。彦造はそれを空中で受け取って、ググッと回しながら花道まで行く。そして花道の途中(いわゆる七三〈しちさん〉)に来かかったところで、マトイをトーンとつく。そこでチョンと柝(き)が入って、辰五郎が威勢よく「イヤーッ」と叫ぶ。他の者たちも「イヤーッ」と答えて、木遣りが始まる。彦造はマトイをかついで、タッタッタと引っ込む──そういう幕切れだった。以下、その時の著者の心境。

「幕があいてから2時間近くのあいだ、応召のことは、ほとんど忘れていた。

 ところが、七三でマトイをトーンとついたとたんに、ツーンときてしまった。地面をたたいた衝撃が、マトイを伝わって指に、指から腕、腕から肩へ──その電流が自分でもハッキリわかる強さで、またたくまに、胸の中につきささっていった。

 ああ、『板』の上で芝居をするのも、この一瞬で、もうおしまいなんだ……!」

「わたしは、ノドモトから吹きこぼれそうなものをこらえて、ダーッとひっこんだ」──。