出棺のとき、青山葬儀所の建物の外に出ると、青空の下、沿道を埋める人々の群れが目に入った。平日の昼間だというのに、どこからこんなにたくさん集まってくれたのだろうか。500人は下らない。おそらくファンの人たちだろう。市原さんが好きだというその想いだけで集まってくれたのだ。
市原さんを乗せた黒い車が門を出て行くとき、彼らはいっせいに手を振って見送ってくれた。その姿に思わず胸が熱くなった。
斎場で、係員が市原さんのお骨の立派さを称え、喉仏と顎の骨は特に大きいと言ったとき、悲しみが込み上げた。あの色とりどりの声は、もう聴けない。
すべてが終わり斎場をあとにするとき、ふと誰かに呼び止められたような気がして振り返った。
背後の壁に平山郁夫画伯の「飛天」の陶板画があった。幅3メートルもあるその絵には、100人ほどの飛天が描かれている。中央には二人の天女がこちらに微笑みかけ、その周りで祈る者、笛を吹く者、踊る者が、黄金の領巾をまといながら浮遊している。
わたしは胸がドクンと鳴るのを感じた。市原さんは宇治平等院の天女が好きだった。羽衣を風になびかせ、空中を自由に舞い踊る天女は、市原さんそのものだった。
晩年、地上の市原さんは身体の自由を奪われた。陶板画の前で茫然と立ち尽くすわたしの耳に、市原さんの、あの懐かしい声が聞こえてくる。
「昔、死を前にしたお友達に『今、どんなことを考えているの?』と聞いたことがあるの。彼女の答えは『いいことだけ』って。病床にあっても、あんなことしようとか、こんなことしようとか。何かを創り上げていく想像は心を穏やかに、豊かにしてくれる。〈いいことだけ考える〉――。今の私も同じね」
市原さんは、どんなときも、魂の自由は失わなかった。彼女の好きだった『梁塵秘抄』の一節、「遊びをせんとや生まれけむ」が、思わず口をついて出た。
肉体から抜けた市原さんは、今、天女となって、再び大空を縦横に走り、自由に飛び回っているのだろう、そんな気がした。