廃線を待つだけじゃない――社員に自信が生まれた
長鉄は大正時代、美濃太田と福井を結ぶ旧国鉄の越美線として計画された。越前と美濃を結ぶ路線だ。福井側と岐阜側から工事が進められたが、つながらず、福井側は越美北線(愛称・九頭竜線)、岐阜側は越美南線として別々に営業した。そして越美南線だけが国鉄民営化前、赤字ローカル線として切り捨てられた。
存続運動に立った沿線自治体が経営を引き継ぎ、一九八六年十二月に第三セクター「長良川鉄道」の運行を始めた。それから三十年。一度も黒字になっていない。沿線人口の減少と共に乗客が減り、九二年度に約百八十万人だった輸送人員は、一五年度に七十五万人台にまで落ちた。赤字は、ただでさえ財政が厳しい沿線の五市町が負担する。だから事あるごとに廃線論議が持ち上がり、〇八年のリーマン・ショック後は廃線が現実のものとなりかねなかった。
「列車を移動手段ととらえていては限界がある。発想を変えて列車に乗ること自体を目的にしてもらおう」と坂本さんらは考えた。元大工の運転士らが作ったコタツ列車、ビール列車、お見合い列車……、年間七十本以上の企画列車を走らせた。「でも三年もしたら飽きられてしまいます。そこで観光列車の運行に踏み切ったのです」と坂本さんは話す。
「投資が失敗したらどうする」。沿線市町や社員からは反対の声が噴出し、合意を得るまでには四年もかかった。面識のない水戸岡さんには飛び込みで事務所に電話し、何度もコンセプトを練り直して、ようやく参加してもらった。県産材を多用した車内は、そうして生まれた。
だが、走らせただけでは人は来ない。例えば料理にも工夫がいる。往路は美濃太田駅前のシティホテル美濃加茂、渡邉一史・洋食統括料理長(58)が全品「ながら」だけのために考えたコース料理だ。特に飛騨牛のしゃぶしゃぶは、火の使えない車内でも味わえるよう、前夜から半ば調理した肉に、熱々のコンソメスープを掛ける食べ方を考案した。こうした準備のため、渡邉さんは週に三日はホテルに泊り込む。発車前に車両に乗り込み、自分の手で料理を並べてから、ホームで見送る。
七人のアテンダントのチーフ、船戸由香さん(36)は、事前に誕生日や還暦の祝いで乗る客が分かると、折り紙を「ながら」の形に切り張りして色紙を作る。お礼の手紙が来ることもある。
「全国には多くの観光列車が走っています。どう差を付けるか、長良川鉄道らしさは何だろうと考えた時に『田舎のローカル線』だと気づきました」と船戸さんは語る。
長鉄の普通列車には杖をついた高齢者が乗る。運転士は出発時間を遅らせても着席を待ち、降車時は運転台を離れて介助する。「いつもありがとう」と運転士に缶ジュースや飴玉を渡す高齢者もいる。
「漏れそう」という客がいれば、駅の便所に駆け込んで戻るまで待つ。船戸さんは「ながら」で我慢できなくなった客を見つけ、予定外の駅で運転士に停車してもらったことがある。「温かさと優しさ。これが長良川鉄道らしさなんですよ」と坂本さんは微笑む。それが乗客に響いたからこその「予約殺到」なのか。社員の意識は次第に変わっていった。「廃線を待つだけではありません。自信を持ってサービスが提供できる鉄道です」と運輸部の林克彦係長(41)は力を込める。
長鉄には応援団がいる。「ちびまる子ちゃん」で有名な漫画家、さくらももこさんだ。郡上八幡を舞台にした「GJ8マン」というアニメをネットで配信しており、そのエンディングでは、さくらさん作詞の「長良川鉄道の夜」という曲が流れる。
無人駅の深戸駅(郡上市)では地元の農家、髙橋廣喜さん(66)らが昨年十一月から、毎週日曜日に朝市を始めた。伝統野菜の深戸ネギなど農産物を並べる。同駅舎には喫茶店があったが、一三年に閉店した。「かわりに少しでも人が集まれるようにと思って」と髙橋さんは話す。路線バスが廃止された深戸では、鉄道が中高生の最後の通学の足だ。
応援団がいる。小さな取り組みも始まった。黒字列車も走りだした。それでも全体の赤字構造に変わりはない。一五年度の経常赤字は約一億六千万円で、一六年度も劇的には変わらないという。通学客はこの十年で四割以上減っており、そのダメージの方が「ながら」の収益よりはるかに大きいのだ。
「でも、今回の自信は次につながるはず」と坂本さんは期待する。「ながらのブームは五年も持たないでしょう。だから今から『次』を仕掛けなければなりません。その時に『やればできる』という若手社員の自信が必要なんです」。仕掛けが続く限り、線路も続いてほしい。