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心が温まる「泣ける話」

2020/01/07

genre : ライフ, , 歴史, 社会

 結婚式の日は、穏やかに晴れた春の日だった。父と祖母、弟妹と私の一家5人は、船場の家からゆっくり式場の国際ホテルへ歩いていった。まず写真の撮影があり、御霊神社の宮司さんが来て式があり、披露宴になった。父は最初に反対したことを水に流し、気持ちよく吞み、気持ちよく酔った。妻は終始緊張し、昔の花嫁の例で固い顔をしていた。お色直しで旅行用のスーツに着替えてきて、黙ってお辞儀をした。

 雲仙行きの切符は買ってある。一同にぎやかに大阪駅へ繰り込んだ。東京発の列車が入ってきた。

 私は汽車は常に3等であった。身分に合わない特2など、生まれて初めてである。妻を先にして乗り、切符の指定する席に座り窓を開けた。

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 現代人には解説が必要だろう。昔の汽車は窓が開いた。送る者、送られる者が、じっくりと別れを惜しむことができた。窓辺に近寄るのも遠慮し、ホームの蔭で泣いていた「可愛いあの子が忘られぬ」という流行歌さえあった。昔の日本では、遠慮は美しいことだったのである。むろん新婚旅行をバンザイで送るような無作法はしなかった。

 プラットホームの端に立つ父は窓越しに私に花束を渡して言った。

「懐仁病院の前を通るとき、窓から投げてくれ」

 私は無言で花束を受け取った。何か言えば涙がこぼれただろう。懐仁病院(いまの兵庫県立西宮病院)は、結婚式から18年前に私の母が死んだ病院であった。

 母は享年27、そのとき私は7歳の小学2年生で、さらに弟妹がいた。弟は、生まれてまだ10ヵ月だった。

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 抗生物質さえあれば死ぬ必要のない病気だった。病床の母は何度も「死にとむない」と言った。3人の子を残して……死ぬに死ねなかっただろう。

 悪いことに、そのとき父は盲腸炎が腹膜炎に悪化し、同じ病院に入っていた。夫婦、どっちが先に死ぬかという状態だった。私は父が移動ベッドに乗せられ、母のベッドの隣に押してこられたのを憶えている。

「芳子、しっかりせなあかんぞ」

「あんたこそ、しっかりしてもらわなあきまへんがな」

 夫婦とも横を向くことさえ難しかったから、2人とも天井を見たままそう言い合った。今でも声が聞える。母の臨終は昭和12年の菊の節句、晴れ渡った明治節の午後だった。

 父は担架で担がれて帰宅し、母の葬儀に出た。喪主の私は白の裃(かみしも)をつけ、1年と2年を担任した女先生が2人そろって会葬してくださったのが嬉しい稚さだった。棺の中で、母は菊花に埋まっていた。それからの生涯を、父は独り身で通した。つらかっただろう。