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心が温まる「泣ける話」

2020/01/07

genre : ライフ, , 歴史, 社会

 ベルが鳴って一〇〇一列車は動き出した。私も妻も窓から手を振った。動く列車に沿って父の走っているのが見えた。

「あれは危なかった。駅員さんが抱き止めてくれなかったら、お父さん、動く列車に触れて大怪我してるところだったのよ」父の死後に妹がそう言った。

「やれやれ済んだね」夫婦はその日初めて顔を見合わせて微笑した。車内はガランとしていた。東京と佐世保の基地を結ぶ進駐軍専用列車が、日本人に開放されて間もない頃だった。特2でもある。新婚組がわれわれ以外に3組か4組、あとは進駐軍の将校らしいのがチラホラいるだけ。言い合わせたように片手で捧げ持ったペーパーバックを読んでいた。

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 ほっとして、進駐軍がしているように椅子の背を倒そうとしたが、どうすればいいか分らない。

 車掌を呼び止めて教えてもらった。もらったのはいいが、今度は背を元に戻せない。また車掌を呼んだ。盗み見すると、どの新婚組も同じように教えてもらっている。

 たしか神戸に一時停車したと思う。窓の外を「すま」という駅名が走った。

「アッ」

 列車が西宮を通過したとき、花束を投げるのを忘れていた。

 父が万感こめて頼んだに違いない母への贈り物。「見てくれ、芳子。孝夫を一人前にしたよ」という伝言。私はそれを忘れた。頼まれて、僅か10分か15分後に忘れた。馬鹿息子は、椅子の背の倒し方ばっかりに気を取られていた。特2に乗ったことのない貧乏人の悲しさか。

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 その夜の12時ごろ、汽車は広島に停車した。原爆からまだ10年、車窓から見る夜の広島には灯火ひとつなかった。私はそっと西宮で投げ忘れた花束を、広島の闇に向かって投げた。

 万死に値する失敗を、私はとうとう生前の父に打ち明けなかった。父も「確かに投げただろうな」と訊ねなかった。

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