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心が温まる「泣ける話」

「病院の前を通るとき、窓から花束を投げてくれ」あの日私が果たせなかった“父との約束”

「投げ忘れた花束」

2020/01/07

genre : ライフ, , 歴史, 社会

 徳岡孝夫さんと中野翠さんが合計40本のエッセイを寄せた『名文見本帖 泣ける話、笑える話』(文春新書、2012年刊)より、心揺さぶられる「泣ける話」を特別公開。今回は徳岡孝夫さんの「投げ忘れた花束」です。

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 大津波で家族や家を失った人々が、着の身着のままで取りあえず高台の小学校に避難した。食べる物がない。1枚の毛布もない。寒さに震えながら一夜明かして、やっと炊き出しのおにぎりが届いた。つかみ合いの喧嘩になるかと思ったら、日本人は行儀正しく列を作って1人1個のおむすびを貰っている。日本人の規律、礼儀正しさ。それは外人記者が震災第一報の中に書いて世界に発信した「日本人の美徳」だった。

 昭和30年の春、駅前にヤミ市の跡が残る大阪駅、長距離列車の切符を売る窓口は、56年後の震災の避難民と同じ日本人とは思えなかった。声の大きい、態度のデカいヤツが切符にありつく。順番も礼儀もない騒ぎだった。低いカウンターの前にひしめく戦後10年の日本人は、強いもの勝ちで争っていた。

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 少なくとも30分の闘争を経て、25歳の若さにモノをいわせた私は、首尾よく獲物にありついた。「3月16日21時6分大阪発、佐世保行き下り夜行急行一〇〇一列車、特2」を連席で2枚である。それは、その日に大阪で結婚する妻と私を雲仙温泉へ連れていく、新婚旅行の切符だった。

 他の列車ではダメ。私は一〇〇一の列車番号に想いをこめた。その日から始まる夫婦の「千夜一夜の物語」を、それに相応しい番号の列車で飾りたかった。

 アラビアン・ナイトか、それとも金と銀の鞍を置いたラクダに乗って月の砂漠に旅立つ王子様と王女様か。とにかく幸せへの出発にぴったりの列車だと信じ込んだのだった。

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 父は、はじめ私の結婚に反対した。そのことで親子の間に涙を浮かべた言い争いもあったが、父は折れた。二十数年後の父の死後に妹から聞いた話では、父の反対はもっともだった。妻の母親は戦後まもなく逝き、私の母も昭和12年に27の若さで死んでいた。父は、私たちを継子にしたくなかったがために再婚の話を断り、3人の子を育て上げた。「母のない者同士が結婚したら、お産のときどうするねん」が、父の反対した理由だったそうである。