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慈善活動中に事故死した英雄 ロベルト・クレメンテがラティーノに開いたメジャーリーグへの扉

文春野球コラム ウィンターリーグ2019

2019/12/27

 日本のプロ野球がオフシーズンの現在、カリブ海にあるアメリカ自治領プエルトリコではウインターリーグのプレーオフ進出争いが真っ只中だ。2013年からラテンアメリカに飛び「中南米野球はなぜ強いのか」を考えてきた私と写真家の龍フェルケルは12月前半、5カ国目として同地を訪れた。

ラティーノにMLBへの扉を開いた偉大な男

 キューバの南東、ドミニカ共和国の東に位置するプエルトリコは中南米野球を語る上で極めて重要な地である。そう実感させられたのは、プエルトリコの“巨人”ことヒガンテスの本拠地に足を踏み入れた際のことだった。

 球場の正面入口へと続く上り階段は、まるでレッドカーペットが敷かれたかのように赤く塗られている。その下にある広場に、大きな男の像が鎮座していた。「P」と書かれたオレンジ色のヘルメットをかぶり、背番号21を背負った右打者は迫り来るボールを今にもかっ飛ばそうとしている。

 ロベルト・エンリケ・クレメンテ・ウォーカー──80年以上前、この町カロリーナで生まれた少年がプエルトリコで最も偉大な男になったことを讃え、「エスタディオ・ロベルト・クレメンテ・ウォーカー(ロベルト・クレメンテ球場)」とこの球場は名づけられた。

カロリーナのスタジアムでは巨大なクレメンテの像が待ち受けている ©龍フェルケル

「寛大な心を持ち、選手としても信じられないような成績を残した。プエルトリコのみんなが彼のことを覚えている。実際にプレーしているのを見たことはないけれど、ビデオで見て、彼のようになりたいと思ったよ」

 そう話したのは、横浜DeNAベイスターズに加入した2018年から2年連続で本塁打王に輝いたネフタリ・ソトだ。プエルトリコ出身のソトにとって、クレメンテは子どもの頃から英雄だった。

首都サンフアンで取材に応じたソト。このオフは毎日トレーニングに励んでいるという ©龍フェルケル

 野球に一定以上の興味がある人なら、その名を耳にしたことがあるだろう。1955年から1972年までピッツバーグ・パイレーツの右翼手としてプレーし、3000本安打を達成。ミート力、長打力、走力、守備力、送球力を備えた5ツールプレイヤーで、MLBで年間MVP1回、首位打者4回、ゴールドグラブ賞に12回輝いている。オールスターに15回出場し、中南米出身で初めてアメリカ野球殿堂入りを果たした。

「クレメンテが多くのバリアを打ち破ってくれた」

「ロベルト・クレメンテはプエルトリコの選手だけでなく、中南米選手に対してMLBへの架け橋となってくれた。彼が偉大な功績を成し遂げてくれたことで、我々には未来が開けたんだ」

 そう語ったのは、ヒガンテス・デ・カロリーナで投手コーチを務めるビクトル・ラモスだ。パイレーツ傘下のマイナーチームで捕手、投手としてプレーしたラモスによると、ラティーノにMLBへの扉を開いた者こそクレメンテだという。

38歳のラモスは取材日、指揮官が知人の結婚式で不在のため、監督代行を務めた。試合前、ボスの横で選手たちはリラックス ©龍フェルケル

 180.3cm、79.4kgと野球選手として決して恵まれた体格ではないなか、圧倒的なパフォーマンスを見せた。MLBの歴史で3000本安打を達成したのは32人しかいないことを考えると、その偉大さがよくわかるだろう。2016年にイチローが「3000-hit club」の仲間入りを果たした際、同じ右翼手のクレメンテの功績は日本でも見つめ返されたほどだ。

 クレメンテがMLB入りした1950年代、黒人選手は激しい差別を受けていた。1954年に入団したブルックリン・ドジャースではマイナーですごし、ジャッキー・ロビンソンのような活躍を見せることはなかったものの、翌年パイレーツに移籍するとその才能を存分に発揮していく。

「ロベルト・クレメンテが多くのバリア(障壁)を打ち破ってくれた。人種差別が最たるものかもしれない」

 前述のラモスは、先達に感謝の意を表した。

 当時のMLBでマイノリティだったクレメンテが尊敬を集めたのは、フィールド外の活動によるところも大きい。貧しい家庭で生を授かった彼は、社会貢献活動に積極的だった。1958年オフにはアメリカ海兵隊にも在籍している。

ラモスに取材する筆者 ©龍フェルケル

 自らの手で人生を切り開いた男の最期は、突然訪れた。

 史上11人目の3000安打でシーズンを締めくくった1972年。クリスマスを数日後に控えた12月23日に中央アメリカのニカラグアで死者1万人以上と言われる巨大地震が発生すると、クレメンテは翌日から救援活動を開始した。そして12月31日、チャーター機に大量の救援物資を積み込んで飛び立つと、エンジンの故障で飛行機はカリブ海に墜落──ラティーノに多くの希望をもたらした男は、帰らぬ人になった。

 享年38歳。あまりにも早く、悲しい最期に、MLBは最大限の敬意を示した。慈善活動を精力的に行う選手に贈っていた「コミッショナー賞」に、「ロベルト・クレメンテ賞」と“偉人”の名を冠したのだ。現在、この賞は年間MVPやサイヤング賞に匹敵する価値があるとされている。