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息子を産んだ1年後に妻の「がん」発覚という絶望 なぜ46歳の夫は「実は不幸でもない」と思えたのか?

“死”が身近になって感じた“生”

2020/01/13
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手術直前と出産翌日に、ふたりで写真を撮った

 執刀が始まる直前に病室でふたり並んでパチリ、トレイに乗せられた腫瘍をパチリと、スマホのカメラで撮った時、「あれ、こんなこと前にもしたっけな……」と脳内検索、するとつい1年前にも分娩を終えた後に病室でふたり並んでパチリ、トレイに乗せられた胎盤をパチリと、やはりスマホのカメラで撮っていたことがヒットした。

手術直前(上)と出産翌日(下)に妻(小泉なつみ、ライター)とふたりで撮った写真。

 さらに妊婦健診ではエコーで映し出された息子を食い入るように見たし、MRIで撮られた腫瘍もまじまじと見たなとか、分娩室から戻った彼女の手を握ったし、意識消失状態で手術室から戻ってきた彼女の手も握ったなとか、アレコレ思い出しては似ていることが多かったことにハッとした。

“死”が身近になって感じた“生”

 やがて“生”をめぐるシンクロニシティみたいなものがあったことにも気づいた。ウンウン唸って全身を震わせて息子という“新しい生命”を産もうとする妻、飛び出すやギャーギャー泣いて手足をバタつかせて“生命の躍動”を突きつける息子。自分の語彙の乏しさに歯軋りしたくなるが、形容できないほどの凄まじい“生”をぶつけられたが、がんの時も似たものを感じた。

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 手術の翌日、朝一番で妻の様子を見に行くとグダ~と寝ている状態。「来たよ」と声を掛けたら「寝てたんだけど」と軽くプンスカされたが、早くもそんなやりとりができることに驚きつつもうれしくなった。3日目にはノートPCで仕事をし、「イタタ……」と言いながらもフロアをぐるぐる回ってはWi-Fiが入るスポットを探して原稿を書いていた。おまけに「がんネタで書かせてもらう」と、編集者の方々にどう売り込もうかまでを思案していた。出産と比べたらたわいのないことの数々かもしれないが、がんによって“死”が身近になったからこそ、妻の仕事への執念に凄まじい“生”を見出したのだ。

©iStock.com

 そしていま、息子の誕生の翌年にがんが発覚した不幸が、実は不幸でもないと思えるようにもなった。

 もし子作り前に発覚していたら、寛解といえる5年間は妊娠できない。それを待つと俺は50歳オーバー、妻も40歳近い年齢になっていたろう。そもそも子作りにさほど熱心とは言えなかったふたりなので、病気の治療を優先して子供は諦めてしまっていたかもしれない。

 妻の身に、出産→がん発覚の順番で大事が連続到来したのは「息子を育てるためにも、ここで治療しろ」ということだったんじゃないか。“生”が“死”を追い払おうとしているんじゃないか……。これは自分にとっても人生最大の試練となった苦しい日々を乗り切るための自己暗示のようなものだったが、最近は確信へと変わった。