「反抗できるタイミングも失いました」
――いきなり、アツい思いを聞かせていただきました。鈴木貴子さんというと父・鈴木宗男さんと一緒に選挙カーの窓から身を乗り出して手を振る強烈なイメージがあります。あんな父がいつも隣にいる生活って想像しにくいのですが、小さな頃から政治家になるための「英才教育」を受けてきたのですか。
「いやいや、父・鈴木宗男とは会ったことがほとんどなくて、物心ついた時から常に政治家・鈴木宗男でした。実は、『横を見たら父がいる』という経験がないんです。私には兄が2人いるのですが、どちらも父が中川一郎先生の秘書を東京でしている時の子どもなんです。私だけが政治家・鈴木宗男になってから生まれた子ども。私だけ道産子なんです。当時の旧北海道5区(中選挙区)は日本一広い選挙区ですから、東京と地元を行き来している父が自宅に帰ってこられるのは月に1、2回でした。兄は2人とも中学から寮生活しているし。私、幼稚園の時に七夕の短冊に『家族とみんなで暮らしてみたい』と書いたことがあるんです。自分では記憶にないのですが、両親はそれを捨てられずに持っていて……。
私が中学に入る時が、父が北海道・沖縄開発庁長官で入閣したタイミングと重なりました。『今しか家族で住めるチャンスはない!』ということで、私が東京に出てきて生まれて初めて父と暮らしました。娘だったら『お父さん、クサい』とか言いたくなる多感な時期でもあります。しかし、数年後に『ムネオ騒動』が始まり、その後、父は遠くの『離れ』にお隠れ遊ばされていて、会いたくても会えなかったので、反抗できるタイミングも失いました。
私は高校からカナダに行って、大学を出るまで日本にいなかった。そして、帰国したらNHKにディレクターとして就職して、長野県に転勤してしまって……」
――多感な時期に「宗男バッシング」を経験しながら、マスメディアに就職された。どうして、政治家と対峙する側を選んだのでしょうか。
「政治家とマスコミ、あと司法が『世界三大嫌な仕事』だと思っていました。正直、この3つに拒否感を持っていた。ですが、就職活動をしようと思った時に、私以上に事実を事実として伝える重要性や意義を認識しながらメディアを目指す者はいるのかと自分に問いかけたら、『いない』と思いまして。面接でも、その話をしました」