アーヴィングの『熊を放つ』の熊でもないし、いっこく堂さんの腹話術人形の「カルロス・セニョール・田五作おじさん」でもない。どちらも八王子市内にある大衆そば屋の屋号だ。
八王子は製麺の町でもある
八王子は絹の道として有名だが、そば輸送の重要な中継地でもあった。信州や三多摩西部で収穫されたそばは、太平洋戦争前まで、甲州街道から八王子を経由して中野坂上付近に数軒あった優良な製粉所に運搬集積されていた。江戸~明治時代、三多摩では焼き畑が行われていて、そばや小麦が栽培されていた。三多摩のそばは香りも味もよく、評判がよかったという。
八王子は浅川が流れ、良質な水もある。製麺にはうってつけの場所ということになる。そうした背景があるからか、八王子の街を散策していると、今も製麺所が各所にある。今はラーメンの製麺も盛んだし、周辺では武蔵野うどんも作られている。一帯は今でも麺つくりが脈々と続いているのだろう。
「熊」呑みしている女性が店主と話し込んでいる
さて、「熊」と「田吾作」ではどんな味を楽しめるのか。まだ自然の残る八王子周辺を散策しながら訪ねてみることにした。
「熊」はJR八王子駅から北西方向に歩いて20分位の国道16号線沿いにある。
駅前は雑然とした雰囲気だが、西放射線通りを歩いていくと、古めかしい呉服屋や仏壇屋、よろず屋などが現れてくる。八王子は古くて明るい、広い平らな街だ。
「熊」に到着し入店すると真っ先に、揚げたばかりの春菊天(小90円、大200円)、かき揚げ天(60円)が目に入った。どれも立体的できれいな揚げ姿だ。早速、かき揚げ天そば(400円)を注文すると、麺を茹で始めて、2~3分で到着した。つゆは薄口醤油をつかっているのだろう、やや明るい透き通った綺麗なつゆである。ひと口飲むと出汁が香る。
麺は平打ちの不ぞろいの麺でコシもあり、つゆとの相性がよい。深大寺の製麺屋さんに特注で作ってもらっているという。サクッと揚がったかき揚げはつゆにほぐれて野菜の甘味が広がっていく。歩いてきた甲斐があった。女性客がカウンターでビールを飲みながら店主とよもやま話をしていて、なかなかよい。
店主は日本橋の「そばよし」がお気に入りとか。開業してまだ3年だが、開業する前はずいぶん食べ歩いて研究したそうだ。