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「とにかく、泥臭く」用水路建設で60万人を救った中村哲医師がアフガンに遺した教え

「病気はあとで治せる。ともかくいまは生きておれ」

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 中村さんの父・勉さんは、戦前、治安維持法下で労働運動を行い、投獄されたこともあったという。

澤地 母は葦平の妹で、両親は労働運動を通じて知り合ったそうです。二人とも大酒飲みで、一晩で一升瓶が二本空いたといいます。先生自身は「飲兵衛の酔態を嫌というほど見てきたから」と、一滴もお酒をお飲みになりませんでしたが。

©文藝春秋

「ともかくいまは生きておれ」

 1982年、九州大学医学部を卒業して福岡県の病院に勤務していた中村氏のもとに、日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンのペシャワール赴任の依頼が届く。

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澤地 先生は両親の勧めもあって、中学時代にミッションスクールに通い、洗礼を受けています。これが、先生を中東の地に導きました。

 この依頼を快諾した中村さんは1984年、生まれて間もない長男と長女、妻とともに現地に赴任した。赴任した当初はハンセン病の治療に当たっていた中村氏だったが、2000年に医療の「限界」に直面したことで、用水路建設を手掛ける第一歩を踏み出すことになった。

独学で用水路を整備 ©共同通信社

澤地 きっかけは、この年にアフガンをおそった大干ばつでした。飢餓状態にある者が400万人、餓死の恐れが100万人という凄まじい被害が予想された。汚い水を飲まざるをえないので、赤痢や腸チフスにかかる人も続出しました。とくに、子どもたちは下痢が原因で次々と命を落としていった。いくら点滴で水分を補給しても命を救うことはできません。人が生きるには、まず水がなければならないのです。

「病気はあとで治せる。ともかくいまは生きておれ」

 これが、先生が辿り着いた答えでした。