昨年12月4日朝、アフガニスタンで長年人道支援を行ってきた中村哲医師が、武装勢力に襲われ亡くなった。享年73だった。
中村さんは、1984年からパキスタンとアフガニスタンで難民への医療支援に尽力してきた。医師としてだけでなく、「100の診療所よりも1本の用水路」という信念の元、井戸を掘り、用水路建設をすすめ、人々の支援に努めてきた。2003年には、長年にわたる貢献が認められ、「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞した。
ノンフィクション作家の澤地久枝氏は、2010年に中村さんの発言録『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』を上梓するなど、その活動を影から支えてきた。澤地氏が中村さんへの思いを語る。
火野葦平との思い出
澤地 初めてお目にかかったのは2008年8月のことでした。思ったよりも小柄で、とてもゆっくり話をされるのが印象的でした。それ以来、帰国されるたびに講演会の楽屋を訪ねるなど、お目にかかってお話をうかがってきました。
中村さんは終戦翌年に生まれると、福岡県若松市(現・北九州市)で幼少期を過ごした。
澤地 中村先生の原風景は、荒々しい港湾労働者の世界です。祖父は若松港(現・北九州港)の沖仲仕(おきなかし)を取りしきる「玉井組」の組長、玉井金五郎。彼は、作家の火野葦平の父親でもあります。葦平の作品『花と龍』は、沖仲仕の労働争議を描いたものですが、これは両親を主人公とした玉井一族の伝記的小説でもあります。
当時、玉井一族の生活を支えたのは火野の文筆業だったという。中村さんは伯父にあたる火野との思い出を澤地氏に明かしていた。
澤地 葦平は大家族の生活を支えるために多くの仕事をこなさなければなりませんでしたから、家族と話をしている途中で、編集者に「原稿の続きを言います」と電話をかけたこともあったそうです。つまり、しゃべりながら小説を作っていたわけで、子どもの先生は「脳の中で、小説を書く部分と会話する部分が分かれている。ものすごい才能だ」と思ったそうです。