皆の目をできるだけ過去のほうへ振り向けるためが……
『背高泡立草』の各短編に出てくるのは、誰もが無名の人ばかり。彼ら彼女たちの人生の断片が開陳されていくだけなのに、それがめっぽうおもしろい。のめり込んで読んでいると、やがて気づかされるのだ、いつどこでどう生きたを問わず、世のあらゆる人に物語があるのだと。
「とくに昔の人なんかそうですよね。長崎の端の島に暮らしていた人間なんて、さぞ変化のない日々を送っていたんだろうと思ってしまいますけど、話を聞いてみると意外にそうじゃない。たとえば長男は家を守るけれど次男、三男あたりは若い頃から出稼ぎに出て、大阪あたりでミルクホールに通っていたとか、そういう話がポロポロ出てくる。そのあと実家に戻ってきて、別の家の養子になったりいろいろあったのち、いまはすっかり落ち着いて座敷でじっと座っているだとか」
古川さん自身、島の祖母の家に帰ると、祖母をはじめいろいろな人たちからそうした豊かな話を聞いてきたのだとか。
「母方の実家へ帰るたび、お酒を飲みながら昔話を聞く機会がありました。僕は大学を中退して、そのまま働いていない期間が長かったのですが、そのころは島に滞在していてもどことなく肩身が狭いものですから、夕食の席などでは現在や未来のことをなるべく詰問されないように、過去のことをどんどん聞くようにしていたんです。皆の目をできるだけ過去のほうへ振り向けるために(笑)。
問わず語りに話される過去の出来事はおもしろくて、最初は単純な好奇心を向けるばかりでしたが、先ほど言ったように24、5歳でこの島のことを小説に書いたらいいんじゃないかと気づいてからは、だんだん題材として意識するようになっていきました。親族のほうも、どうやらこいつは小説を書きたいらしいと知って、その上でいっそうあれこれ話してくれましたね。ありがたいことです」
系図をつくっていくという感覚
生えたら、また刈りに来るとよ。
(『背高泡立草』より)
古川さんが文学のおもしろさに目覚めたのは、中学3年生のときだった。
「それ以前はたまたま家にあった星新一を読むくらいのものでしたが、中3のときふいに三島由紀夫の『作家論』を手にして、影響を受けました。文学にはいろんな流れがあって、それぞれの作家にもいろんな潮流や歴史が流れ込んでいるという事実が興味深かった。たとえば洋楽なんかでも、1970年代のあの伝説的なバンドのドラマーは、60年代には別のこんなバンドでドラムを叩いていて、80年代にはあのミュージシャンとも仕事していたとか、歴史や系譜ってあるじゃないですか。そういうのを知って、自分の頭の中でどんどんつなげていくのが好きだったので、文学でもそれをできると知って興奮しました」
系図をつくっていくという感覚は、「島の物語」を書き継ぎ一族の歴史を紡いできた古川さんの文学の仕事と、相通ずるものがありそうだ。