パ・リーグ最下位のロッテだが、阪神にとっては怖いイメージ

 今年もセ・パ交流戦のシーズンがやってきた。我が阪神にとって初陣となる三連戦の相手は千葉ロッテだ。今季ここまでのロッテはパ・リーグ最下位に沈んでいるものの、交流戦に関しては過去12年間で二度の優勝を誇り、通算159勝127敗14分けと、12球団でソフトバンクに次ぐ2位である(阪神は143勝147敗10分けの7位)。

 正直、虎党の私としてはロッテに弱いイメージなんかまったくない。阪神VSロッテの交流戦通算対戦成績も、昨年までは阪神の24勝21敗(5分け)と勝ち越しているが、それでもロッテのユニホームを見ると、直感的に手強い相手だと思ってしまう。

 それはもう、2005年の日本シリーズが原因だ。詳細は割愛するが、とにかく阪神がロッテに四タテを食らって大惨敗した悪夢が今も脳裏に焼きついている。いやあ、あれは本当につらかった。阪神のリリーフ左腕・江草仁貴(現広島)がロッテ・ベニーに対して1打席3暴投という、藤浪晋太郎もびっくりの大荒れ投球を見せたときなんか(私は勝手に「江草・ベニーの3球」と呼んでいる)、チーム全体が呪われているような気がしたものだ。あれがもしゲームだったら、「今のなし!」と言ってリセットボタンを押していただろう。

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西岡、久保、伊良部……阪神でも活躍した元ロッテ戦士たち

2003年のリーグ優勝に大きく貢献した伊良部秀輝 ©文藝春秋

 さて、そんな虎の難敵・ロッテであるが、過去を振り返ると元ロッテの人気選手が移籍等によって阪神に入団したケース(他球団を経ても含む)も少なくない。近年では西岡剛や小林宏之、久保康友(現DeNA)といった、なにかとキャラの濃い面々が印象的で、もっと遡ると2003年の阪神リーグ優勝に大きく貢献した伊良部秀輝が思い浮かぶ。

 あのとき、メジャー帰りの伊良部はとにかく衝撃的だった。なにしろ1990年代のロッテで一時代を築いた剛速球投手が、速球派が極めて少なかった阪神投手陣に加わったのである。全盛期とピッチングスタイルは変わっていたものの、あの大きな体と小難しい顔で丁寧に投げる阪神・伊良部の姿は、見る者を黙らせる独特の色気があった。

 当時、エースへの階段を上っていた若き日の井川慶は、伊良部の投球哲学に大きな影響を受けたという。影響を受けすぎて井川もメジャー志向となり、その後の悲しい顛末につながるのかもしれないが、それよりなにより一番悲しいのは、今はもう伊良部本人の口からどんな話も聞けなくなったことだ。

 さらに古くは、阪神が日本一に輝いた1985年に陰のMVPと称される活躍をしたリリーフ左腕・福間納や、いぶし銀の二番打者として働いた外野手・弘田澄男も元ロッテであった。また、それから5年後の1990年オフに遠山昭治(当時)との交換トレードで阪神に入団した高橋慶彦も、全盛期を過ごした広島からロッテを経ての移籍だった。

 当時の私は高橋の阪神入団におおいに興奮したことを覚えている。なにしろ、球界屈指の人気を誇ったスピードスター・ヨシヒコである。阪神入団時はすでに晩年に入っていたため、期待通りの働きができなかったのは残念だったが、オープン戦の始球式でタレントの山田雅人さんから死球を受けるなど、どうでもいいことは強く印象に残っている。

1982年、ロッテの大エース・村田兆治の阪神移籍騒動

 そんなヨシヒコ以上のビッグネームとしては、ロッテ史上屈指の大エース・村田兆治の阪神移籍騒動なんてこともあった。1982年10月21日付のスポーツニッポン一面に「村田が阪神へ移籍」という、まるで決定事項のような記事が掲載されたのである。

 同記事を読み返してみると、村田は「いつかセ・リーグの人気球団に移籍して、満員の球場で投げてみたい」「どうせなら、郷里・広島に近い阪神がいい」などという、実に人間くさくて生々しい希望をロッテ球団に訴えていたという。郷里が広島ならカープでいいじゃないかと思うのだが、そこはマサカリ兆治のこだわりだったのか。

 なお、このトレードは阪神からの交換要員で揉めるという、最初から予想がつきそうな理由で破談となった。もしも成立していたら、球界の歴史が変っていたことだろう。