「老人が牛耳る故郷に発展はない」と悟り日本へ
日本へ渡ったのは1942年。所持金はわずか「83円」、最初の妻と娘を韓国に残してのことだった。後に、なぜそこまでして日本に渡ったのかと訊かれた重光名誉会長はこう答えている。
「故郷の村の老人(ママ)は頑固でした。若い者が冬でも利用できる村の銭湯を作ろうとしたら、老人たちが私たちに向かって大声をあげながら『そんなおかしなことはするな』という。人が何か新しいことをやろうとしているのに老人の権威と影響力が削がれると考えたのでしょう。こんな村に残っていたら発展はないと思い日本に渡りました」(同前)
日本では牛乳や新聞配達などをしながら、早稲田高等工学校を卒業。最初に手がけたのは金属加工用の切削油の製造だった。この事業を勧めた日本人は、当時アルバイトで働く学生だった重光名誉会長の真摯な姿勢を見込んで「6万円」を出資したといわれる。その後、空襲で工場を焼失するなどしたが、47年には、進駐軍の兵士が噛んでいたガムに目を付けてチューインガムの製造に乗り出した。
48年、従業員わずか10人の「ロッテ」を設立。「ロッテ」の社名はかつて小説家を目指した重光名誉会長の愛読書『若きウェルテルの悩み』の主人公が恋するシャルロッテからつけられたというのは有名な話だ。
ソウルのランドマーク・ロッテホテルをめぐる逸話
日本で発売されたガムは買い求める人で行列ができるほどの人気商品となった。日本での成功を受け、「祖国韓国へ貢献する」という意志をひっさげて67年、韓国に「ロッテ製菓」を設立した。韓国では、ロッテグループといえば、ロッテ百貨店やロッテホテル、ロッテワールドなどの特に流通と観光業で高く評価されるが、事業は金融、建設、化学分野などにまで拡大し、韓国の五大財閥といわれるグローバル企業となったのは周知の通りだ。
韓国の観光業の象徴とされるソウル市明洞のロッテホテルにはこんな逸話があるそうだ。ロッテホテルの建設は当時の朴正熙大統領の指示により、国際観光公社(当時)が経営していた「半島ホテル」を買収し始まったといわれる。しかし、38階建てを建設中、青瓦台の警護室からこんな電話が入ったという。
「ホテルから青瓦台が見えるので、18階までにしろという。38階建てを基準にしていましたから、半分にできるはずがない。技術的に不可能なので、国務総理に陳情して計画どおり38階建てにした」(同前)
ロッテホテルは1979年に開業。重光会長の部屋は34階にあった。