評論家の坪内祐三さんが1月13日、急性心不全のため東京都内の病院で亡くなった。61歳だった。「週刊文春」では「文庫本を狙え!」、「文藝春秋」では「人声天語」を連載中で、亡くなる直前まで原稿を書き続けた。
あまりにも早すぎる死――。学生時代から40年以上の付き合いがあるノンフィクションライターの一志治夫氏が、思い出を綴る。
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「車夫の坪内」だった大学時代
いつでもどこでも、全力疾走の人だった。かといって、肩に力が入っている感じではなく、飄々と軽々と余りあるエネルギーをたたえて自在に走っていく。私がつきあってきた40年余、ずっとそうだった。
私が最初に坪内祐三と出会ったのは、早稲田のキャンパス内でだった。1978年、私は、高校の同級生、体育の授業で一緒になった先輩、同じ学科のクラスメイトなどを誘って、学内のミニコミ誌「マイルストーン」を立ち上げた。私が声をかけたそのメンバーたちがまた友人を誘う形で、ほどなく十数人が集まってきた。そんな中、少し遅れて入ってきたのが20歳の坪内だった。
後輩たちの奮闘で、いまでは部員も10倍ほどに増え、一般社団法人として年間8万部を発行する立派なサークルとなった「マイルストーン」だが、草創期は実に危うい、いつ消えてもおかしくないようなサークルだった。編集方針、資金難、人間関係ともめる材料はそこら中に転がっていて、やっとのことで創刊号までたどりついたという感じだったのだ。
サークル内には芝居に意欲を出すグループがいて、創刊から1年ほどたった頃、早稲田祭で「人生劇場」を演じることになる。同時に、高田馬場から大学まで人力車を走らせ、無料でお客さんを運ぶというアイディアが持ち上がり、実行される。その車夫となったのが坪内だった。そのあたりの話は、「車夫だったころ」として坪内自身が詳しく書いている。いずれにしても、坪内はサークル内ではまず「車夫の坪内」としてとらえられていたわけである。