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圧倒的な知識、酒席での武勇伝、そして全力疾走――追悼・坪内祐三と過ごした日々

2020/01/23
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誰もが一目おく圧倒的な知識量と文章の内容

 しかし、ほどなく坪内に対しては誰もが一目おかざるをえなくなる。その圧倒的な知識量と文章の内容に気圧され始めるのである。もちろん二十歳の若者だから、いま振り返ればまだまだ途上だったのだろうが、抱え持つ教養と知性はピカイチだった。背景にあったのは、やはり坪内家の血筋のようなもの、そして坪内自身の“体質”だったと思う。ダイヤモンド社の社長である父親の影響も濃厚だった。坪内の家に遊びに行き、ベッドに横になったとき、ふと見上げると頭上に「福田恆存全集」があったことも忘れられない。こののちも自分の読んできた書物との圧倒的差をずっと感じ続けることになる。いずれにしても、尋常な早稲田生ではない、というのが私の抱いた印象だった。

©文藝春秋

 このときから私は、2つ違いの坪内に畏敬の念を抱きつつ、付き合いを深めていく。とりわけ80年代から90年代は濃密だった。ほぼ毎日行き来する日々だったと言ってもいい。1990年、私が1年を過ごしたイタリアからの引っ越し荷物を2トン車で取りに行き埠頭でピックアップするときに(自分で手続きすると安くあがった)手伝ってくれたのも坪内だった。この頃、坪内は、「東京人」の編集者をやめたばかりで、まだ初の著作『ストリートワイズ』を出す前ということもあって自由な時間があったのだ。2人で語る時間は無限にあり、飲み交わす暇(いとま)は存分にとれた。

「誰か編集者を紹介しようか」「いや、自分でやれるから大丈夫」

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 その後、そこここでさまざまな武勇伝を残すことになる坪内だが、私と直接ぶつかることはまずなかった。言い合いになることもなかった。十数年前に一度だけ、私が腹を立ててもう二度と会わないと連絡を絶った出来事があったが、このときは坪内が折れてきた。ただ、こんなことはあった。80年代の終わり、一足先に最初の本を出していた私が坪内に先輩面をして「誰か編集者を紹介しようか」と言ったとき、「いや、自分でやれるから大丈夫。全然そんなのはいらない」と憮然とした面持ちで返されたのだ。考えてみれば実に僭越な話で、本こそ出してはいないものの、編集者がこの有望な新人に目をつけていないはずもなく、当時は、氷山の下に眠る膨大な資源をどう使うかと編集者たちは皆、手ぐすね引いて待っている時期だったのだ。そして、ほどなくその資源は無限であるということに私を含めて誰もが気づくことになる。