それ以降は、山口組内の「山健組支配」が続き、「山健組にあらずんば、山口組にあらず」とも評された。一方の弘道会も、山健組に迫る組織へと巨大化し、双方の組織は山口組内の2大派閥と称された。こうした経緯を経て、司忍は2005年8月、渡辺を追放する形で6代目に就任。ナンバー2の若頭に同じ弘道会出身の高山を指名。山健組支配に終止符を打ち、司・高山体制に移行すると弘道会支配を確立した。
山口組の権力闘争を自民党に例えると…
山口組内部の権力闘争を長年ウオッチしてきた捜査員は、自民党の派閥抗争の歴史になぞらえる。
「暴力団社会について詳しくない人に分かりやすく例えると、山健組の本部は(3代目の)田岡が本家を構えていたのと同じ神戸市内だし、山口組内での本流意識が強い。弘道会は名古屋が拠点ということなどもあり傍流だ。山健組は長年、自民党を支配してきた竹下派経世会みたいなもの。竹下登、橋本龍太郎、小渕恵三と多くの首相を輩出した。弘道会は経世会支配の下で耐えてきた清和会(現細田派)のような存在」
その後の経緯も永田町に例えて解説する。
「司と高山がのし上がってきて、山健組出身の(5代目山口組組長の)渡辺を排除した。組長の地位の禅譲、というよりはクーデターだった。この2人の活動は、『自民党をぶっ壊す』と叫んで登場し経世会支配を終わらせた清和会出身の元首相、小泉純一郎のような存在に見えた」(同前)
小泉内閣の発足は2001年4月。司の6代目山口組組長就任は2005年8月で、小泉内閣発足後だ。「司とは」「弘道会とは」という説明するのに、こうした例えの通りがよかったのだろう。小泉内閣の後も、2012年12月からは同じ清和会の安倍晋三が首相となり、8年目の長期政権となっている。司も6代目組長となり長期にわたり山口組を支配している点も、あえて挙げれば共通点と言えそうだ。
首相を輩出した派閥は党内で幅をきかすのは常の事。敗れた派閥は傍流に押しやられ、そこに怨念が生まれる。山口組の中でも同様のことが起きていた。
神戸山口組系の組織の解散
2019年12月、神戸山口組は神戸市内の関連施設で年末恒例の納会を開催した。
同組組長の井上邦雄をはじめ最高幹部が出席したなか、重鎮とも呼ぶべき最高幹部の太田守正は欠席した。太田は自らの団体である太田興業を率い神戸山口組舎弟頭補佐でもあったが、解散を宣言したのだ。