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“武闘派ヤクザ”高山若頭の支配力――山口組が大きく揺れ始めた「2007年のある殺人事件」とは?

2020/01/25

source : 週刊文春デジタル

genre : ニュース, 社会

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 こうした場合は、後藤が総長となっていた多三郎一家は山健組傘下のため、弘道会としては山健組に問い合わせをするほか、止めさせるよう申し入れするとみられる。しかし、山健組は後藤に対して批判を控えるよう説得することはなく思いも寄らぬ行動に出た。

 後藤を刃物で襲い殺害し、公然と高山批判をしていた口を封じたのだった。殺害場所は神戸市内の山健組本部近くだった。事件は後になって、山健組幹部数人が殺人容疑などで逮捕される。事件の顛末を振り返ると、山健組執行部が弘道会に白旗を上げたのも同然の結末だった。

「山健の先代がいれば…」

 当時を知る山口組幹部は、「この事件あたりから山健組はおかしな行動を取るようになった。当時の山健の先代がいたころは、筋目がしっかりして、統制が取れた山口組内のブランドだった」と振り返る。

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「当時の山健の先代」とは、5代目山口組若頭補佐で山健組組長だった桑田兼吉のことだ。

 5代目山口組時代には、山健組組長として自らの組を率い山口組では若頭補佐を務め、重鎮として大きな存在感を示し山健組による山口組支配を事実上、取り仕切っていた。しかし、桑田は1997年12月、東京・六本木の路上でボディーガードに拳銃を持たせていたとして、銃刀法違反の現行犯で警視庁に逮捕され社会から隔離されることになる。

 その後は裁判が続く中、2005年に山健組の組長の座を現在の神戸山口組組長の井上邦雄に譲り引退、2007年4月に病死している。多三郎一家の後藤が殺害される1カ月前のことだった。山健組の現状に疑問符を投げかけていた山口組幹部が語る。

「先代がもう少し生きていれば、山健はこのようなことにならなかったのではなかろうか」

 神戸山口組の中核組織である山健組の組長、中田が逮捕されたことで、長期にわたり社会から不在となり、神戸山口組の迷走も続きそうだ。

 こうした状況で、「御通知」というタイトルの令和2(2020)年1月12日付の書面が暴力団業界に回された。

任侠山口組が1月12日付で出した名称変更についての書面

 神戸山口組から2017年4月に分裂して結成された「任侠山口組」が、山口組の看板を外して「絆會」と名称を変更するという内容だった。書面には「山口組の再統合と大改革を目指して参りました」「現状では極めて困難で有ると判断致し、新たなる出発をする事と致しました」(一部抜粋)と理由が記載されていた。

 警察当局によると、山口組の名称を外したのは「高山の圧力」だという。

 山口組若頭という絶対的で強大な地位にある高山の神戸山口組、任侠山口組(現・絆會)への圧力、中核組織の山健組の組長逮捕などによる神戸山口組の迷走など動きは混迷化している。

 しかし、高山も安泰ではない。2020年1月、山口組と神戸山口組を特定抗争指定暴力団として強い規制に乗り出した警察当局が最重要ターゲットとしているのは引き続き高山だ。今後も暗闘が続く。

(敬称略)

“武闘派ヤクザ”高山若頭の支配力――山口組が大きく揺れ始めた「2007年のある殺人事件」とは?

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