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400樽の原酒を守るために起業

 肥土は、羽生のウイスキーに可能性を感じるようになった。しかし、その頃会社ではペットボトル入りの焼酎や紙パック入りの日本酒を大量に卸す事業を主力にしていたため、夜な夜なバーをはしごする肥土には次第に社内外で「バカ息子は何やってんだ」という声が聞こえてきた。

 その間にも業績の悪化は止まらず、2000年に民事再生法を申請。同年に肥土が35歳で社長に就任して自主再建かスポンサー企業を探すことになり、結局2004年、他社に事業を譲渡することになった。

 譲渡先の企業は、経営再建のために「場所を取る、時間もかかる、売れてない」ウイスキー事業からの撤退を決定。肥土に、設備の撤去と羽生蒸溜所で約20年仕込み続けた400樽のウイスキーの原酒の廃棄を求めた。

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 肥土は経営を続けてほしいとオファーされていたが、ここで腹をくくった。

「二十歳目前の子どもたちを見捨てるようなことはできない。なんとかこのウイスキーを世に出すための仕事をしたい」

 肥土の頭には、羽生のウイスキーを評価してくれたバーテンダーや、数多のバーで出会ったウイスキー愛好家の笑顔が浮かんでいた。

――あの人達に喜んでもらえるウイスキーを造れば、自分ひとりぐらい食っていけるだろう。根拠はない。ただ、自分の足でフィールドを見てきたからこその自信があった。

 会社を離れた肥土は2004年9月、ベンチャーウイスキーを設立。400樽のウイスキーの原酒は、顔見知りだった福島県郡山市にある笹の川酒造の山口哲蔵社長が「そんな貴重なものを廃棄してしまうなんて、業界の損失だ」と保管を引き受け、事なきを得た。

 山口社長は、肥土の背中を押した。

「この樽は貴重なものだから預かる。だけれども、ウイスキーが売れなくなっているいま、我々が製品化することはできない。君がちゃんと世に送り出すんだよ」

 この言葉を胸に、肥土のたったひとりのウイスキー造りが始まった。

肥土伊知郎

* * *

後編〈前代未聞のスピードで頂点を極めた男・肥土伊知郎が秩父で挑む究極のウイスキー〉に続く

写真=榎本善晃