いまから110年前のきょう、1907(明治40)年6月19日までの3日間、時の首相・西園寺公望は、東京・駿河台の自邸に、当代を代表する文学者たちを招待した。

駿河台の西園寺邸 ©共同通信社

 出席したのは、小杉天外・小栗風葉・塚原渋柿園・森鴎外・幸田露伴・内田不知庵(魯庵)・広津柳浪・巌谷小波・大町桂月・後藤宙外・泉鏡花・柳川春葉・徳田秋声・島崎藤村・国木田独歩・田山花袋・川上眉山。ただし、招待状を受け取った20名のうち坪内逍遙・二葉亭四迷・夏目漱石の3人は出席を辞退し、波紋を広げる。

「雨声会」と名づけられたこの会は、西園寺公望によれば、かつて面倒を見たこともある国木田独歩の勧めによるもので、読売新聞主筆の竹越与三郎(三叉)と衆院議員で東京日日新聞主幹の横井時雄が世話人を務めたという。西園寺は「小説といっても、(江戸時代の曲亭)馬琴のようなのもあるが、大体に世態人情を描写することは、小説に待つべきものだと思う。それで当代の小説家と親しく交わってみる気になった」と後年語った(小泉策太郎筆記、木村毅編『西園寺公望自伝』大日本雄弁会講談社)。幼少期より漢籍に親しみ、青年時代に留学したフランスなど西欧の文学にも造詣が深かった文人政治家・西園寺らしい発想といえる。

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 一方、欠席した3人にはどんな事情があったのか。逍遙はこの年、帝国学士院会員に推薦されたものの辞退しており、反権威意識からこの会も欠席したものと思われる。四迷も同様に反骨精神や権力嫌いがあったのに加え、実業などにも手を広げていたことから、文学者として見られるのは心外として断ったらしい(ヨコタ村上孝之『二葉亭四迷―くたばってしまえ―』ミネルヴァ書房)。

西園寺公望 ©山川進治/文藝春秋

 これが漱石の場合はちょっと複雑である。漱石は当時、朝日新聞社に入社して連載第1作となる『虞美人草』を執筆中であり、執筆多忙ゆえ辞退したと朝日紙面では伝えられた。また有名な文学博士号辞退の一件を思えば、逍遙・四迷と同じく反権威意識から断ったとも考えられる。

 ただし、その後、1909年に時の桂太郎内閣の文部大臣・小松原英太郎が、やはり文学者を招待して会を催したときには、逍遙が今回も筋を通して辞退したのに対し、漱石は出席している(四迷は当時、朝日新聞特派員としてロシアに滞在中で、その帰国の途上に亡くなる)。小松原はこのころ、鴎外の『ヰタ・セクスアリス』や永井荷風の『ふらんす物語』などの小説を風紀紊乱の懸念から次々に発禁にしていた。それだけに漱石の行動にはどうも首をひねらざるをえない。