首相の「私情」がキーポイント
今回しみじみ思うのはまたしても首相の「私情」がキーポイントということだ。広島の溝手憎しも、モリカケも桜を見る会も共通するのは「私情」。そこには私怨や友情や贔屓が全部詰まっている。
日刊スポーツの名物コラムに「政界地獄耳」がある。私は昨年末に「文春オンライン」と「日刊スポーツ」のコラボ企画で地獄耳師匠と対談したのだが、そのなかで「安倍政権の本質」について尋ねた部分がある。
鹿島 僕がなるほどなと思ったのは、来年度の「桜を見る会」中止が発表された3日後、地獄耳師匠は安倍政権のやり方をただ一言、「せこい」って書いたじゃないですか。
地獄耳 そう、巨悪じゃないんです。つまり、「権力の行使」と言うと絶対的なものすごいパワーだと感じるけど、そうじゃない。ちっちゃなところで権力を使うんです。そうすると、すごいせこい感じがしちゃって。何か困った時には「これは民主党政権でもやってました」と言い逃れに使うところも、せこさです。
いかがだろうか。巨悪ではないがせこい。一強ゆえにそのせこさは身内からは文句が出ない。私情が過ぎて何かおかしくないか? と世間から問われると「説明しない」という選択で済ます。
28日の衆院予算委では桜を見る会の参加者増加について「幅広く募っている、募集していることをいつから知っていたのか」と質問された安倍首相は「私は幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」と答えた。
するとツイッターには「#募ってはいるが募集はしていない」というハッシュタグが登場して大喜利化。
私も「書き換えだけど改ざんじゃない」という日刊スポーツの見出し(2018年5月30日)を思い出して投稿した。ちなみにこの見出しの元ネタは「さよならだけどさよならじゃない」(1991年・やまだかつてないWink)である。まさに「募ってはいるが募集はしていない」の元祖だ。やまだかつてない首相。
さて今回の「募っているけど募集していない」という首相の言葉に対し、「一国の総理が意味の取り違い、理解力や読解力不足」というツッコミ、もしくはあげつらいがあるが(東京新聞1月30日)、ポイントはそこではない。
注目すべきはこの説明で大丈夫だと思っていたことである。この「言い換え」でいけると思っていた怖さである。ここでもちゃんと説明しない手法や言葉の言い換えが出たのだ。
この体質がすすむとどうなるか。官僚は「誰か」を守るために公文書破棄をして結果として歴史を断絶することになってしまう。伝統破壊である。せこさが国の根幹を揺るがす大事となるのだ。
このヤバさは、保守を自認する人こそ指摘してあげるべきではないだろうか。
今こそ国を想い、憂いる。私は保守派の新聞にこそ、この役割を期待したいのである。