今の私にとって大切なものと出会えるとも思っていなかった
AV強要問題など、昨今の業界を揺るがす問題が問題として成立しているのも、一つにはこの時間経過による意識の変化が関係していると私は考えている。強引なスカウト、不誠実な事務所、悪ノリする現場、その場でした嫌な思いはあるいは飲み込めることがあったとしても、どこかの時点でそれらの罪の重さを再認識させられる。その時の怒りは抑えようがないほど大きいだろう。
私は(スカウトは若干強引というか巧みだったけど)別に強要被害者ではないので、訴える先もなく、文句は全て自分にはねっかえってくる。ちょっとでも泣き言を言えば自分の浅はかさを呪えと言わんばかりに非難される。
逆ギレするわけではないけど、しょうがないじゃないですか。私は足元に転がっている石を蹴るのに、それがどこを通ってどこにはねっかえりどこにぶつかるのか、それほど深く考えてはいなかったし、もっと反射的に動いてしまった。今の私にとって大切なものと、当時はまだ出会っていなかったし、出会えるとも思っていなかった。時々、どんなに自分のせいじゃんと反論されてもいいから、いつまでやらなきゃいけないの、そろそろ許してもらえませんか、と言いたくはなる。
私は長らくなるべくビュンビュンはねっかえってくる石を避けようと逃げていた。特に会社を辞めた後、そして週刊誌その他の報道の後、「元AV女優」の鈴木涼美さんになってからは、好きな人がいようが生きたい場所があろうが、意識的に夜職や似たような業界の男としか親しくしなかった。彼らの周囲には私と同じような女の子たちしかいなかったし、彼ら自身も私と同じくらいは世間に後ろめたさを感じているので、気楽なのだ。元カノもキャバ嬢だったり、私と別れてその後に付き合う彼女もAV女優だったり。
それはぬるま湯にいるような居心地の良さがあっても、実は結構息苦しいことだ。このまま妥協してぬるま湯で生きるのも悪くはないけど、もし可能なら、誰かに掬い上げて欲しいと思ったし、できれば好きな人に掬い上げて欲しかった。でも、例えば運よく掬い上げてもらった先に、絶望や劣等感がある気がして、なかなか手を伸ばせなかった。
うちの母は元AV女優です、の怖さ
今や、歌舞伎町の女の子たちがみんな真似して整形したがるほど人気のアイドルAV女優もいれば、別の分野で評価されながら誇り高く出演を続けるAV女優もいる。彼女たちに憧れる女の子たちがいるのは全くもって当然だし、私はそんな憧れを否定する言葉など持っていない。
私は別に大したAV女優ではなかったし、「いやいやアンタには憧れないけど他の女優に憧れてんねん」と言われるでしょう。ただ、多くの浅はかで可愛い女の子たちを見ると、老婆心ながら「それ、AVのギャラだけじゃないよ、元AV女優として生きる人生全部へのギャラだよ。安くないか、もう一回考えてみたら?」くらいは思うことがある。
AV女優になるのは全くもって女の子たち全てに開かれた自由です。だけど、女の子たちが自由であると同時に、「元AV女優はできれば雇いたくない」「元AV女優とはできれば結婚したくない」「母親が元AV女優だなんて恥ずかしい」と思う人たちは人たちで、そう思う自由を持っている。それは、偏見というよりもっと正直な、とても残酷で真っ当な感覚だと、私ですら思う。