客室の床面高さは通勤電車のそれより50mmも低い
AE車は日本初の空港特急であり、「遠い成田」と都心を最速で結ぶというイメージが重要だ。そこで先頭車は胸を張り出した流線型としてスピード感を演出した。曲線の多い京成本線を高速走行するため車体の重心を下げた。客室の床面高さは通勤電車のそれより50mmも低くなった。海外旅行客に配慮して大きな荷物置き場も設置された。
筆者は小学生の頃、母方の叔父にねだってスカイライナーで京成成田まで往復したことがある。地面に近いところを走る車窓は、まるで父方の叔父が乗っていたトヨタセリカGTのように速かった。保存車両の座席は当時とは異なる。製造当初は転換式クロスシート、背もたれをパタンと倒すと前後の向きが変わる方式で、表地はバックスキン風人工レザーだった。のちに布地にかわり、回転クロスシートになった。
運転台を見せていただく。京成電鉄で初めて採用されたワンハンドルマスコンだ。手前に引くと加速、奥へ倒すとブレーキになる。速度計が興味深い。丸形メーターではなく、新幹線0系のような横型で、数字の上下に目盛りがある。上に指令速度、下に実速度と書いてある。新幹線のようなATC(自動列車制御装置)を連想するけれど、実はこれ、定速制御装置だという。
クルマで言うところの「オートクルーズ」システムだ。曲線通過時の速度低下を避けるために設置された。マスコンで速度を指定すると、その速度に達するようにモーターを制御する。東海道新幹線はN700Aに初めて定速走行システムを搭載したから、当時としては画期的な仕組みだった。
反対派によって放火される事件まで
AE形は空港特急として画期的な内装、制御装置を備えたけれども受難続きだった。国鉄による成田新幹線計画があったため、成田空港ターミナルへの路線建設は拒否され、現在の東成田駅からターミナルビルまではバス連絡となっていた。そもそも成田空港自体が建設反対派との攻防を繰り広げており開港が遅れた。AE形は当初、本来の用途ではなく、成田山参詣特急として走っていた。
その上、成田空港開港直前に反対派によって放火される事件まで起きた。中間電動車1両が全焼し、前後と隣の線路の車両が延焼した。
当時、京成電鉄の社員として電車を見守っていた田中良治氏(現・京成車両工業勤務)によると、当時はまさか電車が狙われると思わず、車両基地に警備システムもなかったという。とてものどかな時代だった。
「1976年に新入社員として配属された頃、AE形の半分は車庫の奥に留置されていました。1カ月ごとの定期検査でパンタグラフを上げて検査場に移動して、検査ごとにまた戻す。私の最初の仕事はその車両の蜘蛛の巣を払うことでした。屋外で2週間もおいておくと、車両にツヤがなくなり、生気がなくなるような気がしました」