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連載この鉄道がすごい

日本初の空港特急「スカイライナー」 在来線最速160キロ運転実現までの長い旅路

定番になるまでは「受難と不遇」の時代もあった

2020/02/02
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待望の成田空港ターミナル乗り入れが実現する

 空港反対派などの影響で成田新幹線計画は進まず、1982年に「成田新幹線」「北総開発鉄道(現・北総鉄道)延伸」「国鉄成田線分岐」の3案が検討された。

 1986年、当時の橋本龍太郎運輸大臣は成田新幹線計画を断念し、国鉄からJRに引き継がれなかった。1989年、石原慎太郎運輸大臣は未使用の成田新幹線駅を視察。「もったいない、線路を繋げ」と指示した。その結果、「国鉄成田線分岐」案が進められ、同時に京成線も京成線成田駅から成田空港ターミナルビルへ新線が建設された。複線の新幹線用地はJRと京成電鉄が1本ずつ使う。

 スカイライナーにとっては待望の成田空港ターミナル乗り入れが実現する。そこで6両編成から8両編成に増強することになった。AE形2編成を分離して他の編成に組み替えて8両とした。

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大きく張りだした先頭車、開閉式ヘッドライトが特徴。当時の新型車両「AE100形」

 このタイミングで、新型車両「AE100形」2編成を新たに製造した。その外観の特徴は、大きく張りだした先頭車形状と先頭車中央にある非常扉、そして鉄道車両としては珍しい開閉式(リトラクタブル)ヘッドライトだ。しかもカーブ区間などで照射角を広くする機能も付いていた。AE形からの定速制御装置も引き続き採用した。AE100形は1990年から1993年まで、8両編成7本が製造され、AE形の役目を引き継いだ。

「VVVFインバータ制御を採用し、AE形よりパワーがあって、中速域からの加速が良い車両でした。座席の前後間隔も広くて快適になりました」(田中氏)

座席の前後間隔も広くて快適

「AE100形」非常扉はついに活用されず……

 非常扉の設置は、都営浅草線へ直通する構想があったからだという。1990年に始まった羽田空港沖合展開事業の第3期において、京急空港線の羽田空港新ターミナル乗り入れが決まっていた。完成すれば、成田空港~羽田空港を連絡する特急を運行できる。しかし、25年間にわたる運行期間で、地下鉄直通はついに実現しなかった。2010年に羽田空港が再国際化され、成田空港も国内幹線便が乗り入れていた。両空港を連絡する需要が見込めなかった。

AE100形の運転席。やはりワンハンドルマスコンが設置されている。中央のスペースは非常扉

 ただし、営業運転以外で都営地下鉄浅草線と京急線を走ったことはある。東急車輌製造(現・総合車両製作所)横浜工場で製造された3編成は、京急線と都営浅草線を通って京成線に送られた。この時は4両ずつ、他の電車にけん引されて回送した。2011年と2015年には、都営浅草線の馬込車両検修場で開催された「都営フェスタ in 浅草線」で展示するために回送運転を実施している。

「スカイライナー用車両は、通勤用着席列車のモーニングライナーやイブニングライナーでも使われています。お客様が増えるにつれてタバコ煙が濃くなり、荷棚に空気清浄器を搭載しました。トイレタンクの容量を見極めるため、お客様に気づかれないように使用状況を調査しました」(田中氏)

荷棚に搭載された空気清浄器

 スカイライナーは首都空港連絡特急として、国の空港政策に影響される宿命がある。AE100形は成田空港直下を発着する2代目スカイライナーとして25年以上も活躍し、スカイライナーのブランドを国内外に定着させた。しかし、AE形と次の新AE形はプラレールや鉄道模型になっているのに、AE100形はNゲージのみの発売で、子どもたちに人気のプラレールは発売されなかった。ちょっと寂しい。