京成電鉄と言えばスカイライナーだ。最速列車は京成上野駅~成田空港駅間を44分で結ぶ。JRと乗り換えが便利な日暮里駅と空港第2ビル間は最速で36分だ。上野、日暮里から比較すると、羽田空港国際線ターミナルまでの所要時間とほぼ同じか、少し早い。「成田は遠い」という時代はとっくに終わっている。

2010年にデビューした3代目のスカイライナー「新AE形」

 そのきっかけは2010年に走り始めた3代目スカイライナーだった。ほぼ一直線に成田空港へ達する「成田スカイアクセス線」が開業し、在来線最速の時速160キロ運転を始めた。ライバルのJR「成田エクスプレス」は東京駅~空港第2ビル駅間で50分以上かかる上に料金は少し高い。成田エクスプレスは関東の駅を網羅するなど棲み分けはできているとは言え、いまや「成田空港へ早く行くならスカイライナー」というイメージは強い。

 しかし、スカイライナーの歩みは決して順風満帆ではなかった。京成電鉄とスカイライナーの歴史を振り返ってみよう。

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赤い太線が京成本線、青い太線が成田スカイアクセス線(地理院地図を筆者加工)

参詣鉄道から都市近郊鉄道へと変化した

 京成電鉄は都内から成田山新勝寺へ参拝する人を乗せるため建設された。1926年に押上~成田花咲町(仮駅)が開業。1930年に現在の京成成田駅、1933年に現在の京成上野駅が開業する。その後は他の大手私鉄と同様に多角経営し、戦後は地下鉄直通による都心乗り入れとそのための全線改軌(レール間の幅を広げる)、千葉ニュータウンに向けた投資などドラマチックな転機がいくつかあった。

 今日の京成電鉄の骨格を作った出来事といえば、1978年5月20日の新東京国際空港(成田空港)開港翌日から始まったスカイライナー運行だった。参詣鉄道から都市近郊鉄道へ変化した京成電鉄は、1964年の東京モノレール羽田線に次ぐ「空港連絡鉄道」という新たな使命を得た。そして、スカイライナーは日本初の空港行き座席指定特急列車となった。

初代AE形の「skyliner」の文字

当時はクリーム色の車体に窓まわりがマルーン(栗色)

 京成電鉄の宗吾車両基地に、初代スカイライナー用車両「AE形」の先頭車が保存されている。AE形は1972年から1978年にかけて6両編成7本が製造された。AE形のAEは「Airport Express」の略だ。

 塗装は最近の京成カラーになっているけれども、当時はクリーム色の車体に窓まわりがマルーン(栗色)という塗装だった。かつて京成電鉄が成田参詣特急「開運号」で使っていた伝統色。京成電鉄はその色を新時代のシンボルに与えた。奇しくも同じ2色が1979年から製造された国鉄117系電車にも採用され、近畿圏で新快速という高速列車に投入されている。AE形がデザインに影響を与えたかは不明だ。しかし、空港特急というスピード感はインスパイアを与えたかもしれない。どちらもカッコいい。

宗吾車両基地の一角に保存されている初代AE車の先頭車両