歴史において人間はときどき、それまでの経緯をことごとくチャラにしてしまい、すべてを一からやり直そうとするかのごとき大転換を試みる。歴史の連続性を完全に断ち切るなど、むろん実際には不可能としても、そこまでの試みがなされることには、無視しえない意義や重要性がある。
なじみ深い例は、一九四五年、第二次大戦の終結にあたって、地球規模の連帯による平和と繁栄の追求が謳われたことであろう。戦後日本は、この理想に徹する(ないし殉じる)ことを国家的なタテマエとしており、ゆえに「戦前」と「戦後」を別物として扱おうとする傾向が強い。
しかるに興味深いのは、「地球規模の連帯による平和と繁栄の追求」が、第二次大戦のみならず、第一次大戦から始まった大動乱の時代に終止符を打つためのものと位置づけられていたことである。一九四五年六月に成立した国連憲章の前文から引用しよう。
〈われわれ連合国の諸国民は、戦争の惨禍より将来の世代を救おうと決意した。戦争はわれわれの生涯の間に“二度までも”、はかりしれない悲しみを人類にもたらしたからである〉
〈この目的を達成すべく、われわれは諸国家が寛容の精神を実践し、良き隣人同士として平和のうちに共存するようにならねばならぬという結論にいたった〉(拙訳。以下同)
第一次大戦が勃発したのは一九一四年であるから、国連創設が決まるまでの三十年あまり、諸国家は寛容の精神を実践せず、良き隣人同士として共存しようともしなかったことになる。よって戦争根絶のためには、まずその点を変えねばならない理屈なのだ。
だが、完全に新しいものなど人の世に存在しない。三十年にわたって、はかりしれない惨禍をもたらした大動乱を終わらせるべく、世界のあり方を根本から変える試みは、国連創設のほぼ三百年前、一六四八年にもなされていた。
くだんの試みこそ、ウェストファリア条約である。
「滅び」に直面するヨーロッパ
ウェストファリア条約は、一六一八年から続いた「三十年戦争」を終結させるために締結されたものであり、「ミュンスター条約」と「オスナブリュック条約」という二つの条約から成り立つ。
ミュンスターもオスナブリュックも、条約をめぐる交渉が行われたドイツの都市名。両者の距離はわずか四十五キロ前後とのことで、ともにウェストファリア地方(ドイツ語読みでは「ヴェストファーレン」)にあるため、「ウェストファリア条約」と総称される。
十七世紀前半、ドイツは神聖ローマ帝国の一部だった。けれども十六世紀に発生した宗教改革は、同帝国の内部でもカトリックとプロテスタントの深刻な対立を引き起こす。キリスト教を信じることには変わりがないにもかかわらず、「良き隣人同士」として共存できなくなったのだ。
一六一八年、ボヘミア地方のプロテスタント貴族が、熱烈なカトリックの国王フェルディナント二世(翌年より神聖ローマ皇帝)にたいする武装決起に踏み切る。こうして始まった戦乱は、ヨーロッパの主要国を巻き込んで巨大化していった。
三十年戦争は宗教対立に端を発しているものの、各国の政治的な思惑がからみだしたあとは、カトリックとプロテスタントの争いというだけでは割り切れない様相を呈する。たとえばフランスはカトリックが主流だったにもかかわらず、神聖ローマ帝国の皇位を保持していたハプスブルク家に対抗すべく、プロテスタント側に加勢した。しかもその仕掛け人となった宰相リシュリューは、カトリックの枢機卿でもあり、国内ではプロテスタントを抑圧していた人物なのである!
ただし誰の目にもハッキリしていたのは、三十年戦争の惨禍のすさまじさだった。主戦場となったドイツなど、じつに全人口の三十五パーセントが死滅している。いわゆる「昭和の戦争」(日中戦争、および太平洋戦争)において、わが国は三百万人もの犠牲者を出したが、当時の日本の人口は七千万人だったのだから、比率にすれば四パーセントちょっとにすぎない。
三人に一人以上が死んだというのは、「人口密集地を一歩出たら、そもそも人間がロクにいない」ことを意味したであろう。実感としては「死屍累々(ししるいるい)」どころか、「この世の終わり」だったに違いない。おまけにカトリック側もプロテスタント側も、ともに疲弊を深めこそすれ、決定的な勝利を収めていなかった。
三十年戦争に深入りしなかったイギリスでも、一六四〇年代に入ると国王チャールズ一世と議会との対立が激化、ピューリタン革命が始まる。チャールズはやがて斧で首を斬られることになるのだから、十七世紀前半、ヨーロッパはまさに「滅び」に直面していたと言えよう。現にピューリタン革命中、少なからぬイギリス人は「一六五〇年代半ばには黙示録(=世界の終末)が実現する」と信じていた。