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宗教対立を越えて

 ウェストファリア条約は、滅亡の危機に瀕した(ヨーロッパ)世界を、どうにか再建するための取り決めだったのである。条約締結をめぐる会議には、神聖ローマ帝国の領邦を含めると、六十六カ国から使節が参加したとされるが、問題の本質は「平和のうちに共存するだけの寛容さを、どうやって諸国家に取り戻させるか」だった。

 宗教対立が三十年戦争の引き金となり、かつ単一の信仰でヨーロッパをふたたびまとめあげることが望みえないのを思えば、解決の道は「宗派が異なるからといって手出しをせず、互いに相手のあり方を受け入れる」システムを構築する以外にない。このようなシステムを正当化するには、それぞれの国や領邦に強力な独立性、つまり主権を認めるほかなかった。どんな信仰を持つかは、各国が独自に決める権利を持つ事柄であり、外部から指図される筋合いはないというわけなのだ。

 かくして「主権国家」の概念が確立されるものの、これは神聖ローマ帝国を形骸化するばかりでなく、ヨーロッパ諸国(の君主)にたいしてローマ法王が持っていた権能も否定することにひとしい。はたせるかな、ローマ法王インノケンティウス十世は、ウェストファリア条約に強く抗議している。

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 前任の法王ウルバヌス八世は、三十年戦争終結のための予備交渉を推進することで、むしろ同条約の成立に貢献しているのだが、ここまで既得権益が侵害されるとは想像していなかったのだろう。先に登場したリシュリューが、カトリックの枢機卿でありながら、三十年戦争においては、国家、ないし国王ルイ十三世の利益を優先し、プロテスタント側につくことを選んだのも、「正しい信仰よりも自国の主権」という変化を反映した振る舞いと評しうる。

 ただし宗教について、主権を根拠とする相互不干渉の原則をつくりあげるだけでは十分ではない。政治システムが安定するには、立場の異なる者同士でも接点を見出せるような「普遍的な基盤」が不可欠なのだ。従来ならばカトリック信仰が基盤たりえたものの、相互不干渉の原則を成立させるべく、その普遍性をみずから否定したあとでは、新たな基盤を探す必要があった。

 十七世紀後半のヨーロッパで、当の基盤としての地位を得たのが理性である。イギリスの科学史家・科学哲学者スティーブン・トゥールミンは、著書『コスモポリス――近代の隠された目標』(フリー・プレス社、米国、一九九〇年)で、こう明快にまとめた。

〈合理主義の方法論を発達させて、宗教的な対立を越える「普遍的な確実性」を築き上げることこそ、デカルトの願いだった。彼の願いをいかに現実のものとするか? 三十年戦争が終わったあと、ヨーロッパの知性が直面した課題はこれに尽きる。カトリックとプロテスタントが、腹を割って議論し、物事の基本的なあり方について理解を共有できるようにすること。意見があまり違わない事柄については合意すればよい。合意できない事柄については、ひとまず別枠にくくったうえで、なるべくなくしてしまおうという次第だった〉(三十年戦争に従軍したこともあるデカルトは、合理主義哲学の祖と目される人物。ウェストファリア条約締結の二年後、一六五〇年に死去した)

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