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2014/06/10

日本人にとって

「反日」あるいは「尖閣」とは、こうした中国のナショナリズムになりきらない「自己愛」の、日本への発現形態である。後者はnationの要件たる「領土」にかかわるので、いよいよ譲れない問題になる。

 頭ごなしに自らが正しく、反論・議論を受け付けようとしない姿勢は、われわれからみれば、異形のナショナリズムともいえよう。しかしそう断じてしまうと、ややお国柄をわきまえない議論になりかねない。「土俗的」な中華思想の「上から目線」と考えたほうが、むしろ説得的である。そしてそれが、nationを作ろうとする営為に由来することも忘れてはならない。

 しかしそれが異形と映るのにも理由がある。中国とは隣り合い、文字も顔も同じだから、自分とよく似ている。それが日本人のごく一般的な感覚だとすれば、およそ錯覚というほかない。距離が近くとも、言語はまったく異なるし、顔かたちが同じでも、考え方は全然ちがう。交流もごく希薄で、日本以上に中国と交わりの密な国や集団は、ほかにいくらでもある。そこに思い至らないので、いよいよ奇異にみえてしまう。

 日本人はそもそも、中華思想に乏しい。それを旺盛にもちうるには、物質的にあまりにも後進国であったし、精神的には儒教イデオロギーを身につけることもなかった。江戸時代にようやく摂取しかけたものの、やがてアレルギーをおこして、西洋文明に乗り換えた、というのが歴史的プロセスである。

 しかもnation形成の艱苦(かんく)を味わった経験に乏しい。これは大陸から離れた、西欧のnationとほぼ同じ規模の島国という地勢によるところが大きく、およそ偶然の産物である。一つにまとまりやすかった条件があり、いったんまとまってしまうと、一元的な権力と均質な民衆をもちえた。すでに江戸時代から「日本人」という観念は存在しており、西欧のnationの観念も、いわばすんなり受け入れることができた。もちろんそれに見あう物質・制度・精神を作りあげる苦闘はあり、それを日本の近代化とよぶけれども、それはおよそ大陸とは異なる道を歩んでいる。日本にとってnationは、ほぼ所与のものであって、そうであればこそ、中国の「愛国主義」が理解しがたい。

 その裏返しとして、たとえば「国民国家論」がある。これなどはごく日本的な命題、日本人的な思想風景だといってよい。国民国家なるものに思い切って批判的になれるのも、その前提として外来のnationが、それなりに板についている、という事情がある。日本がバラバラになるはずはない、という無意識の安心感が根柢になくては、およそこんな言説が力をもつことはゆるされまい。

 それもnationがほとんど所与、あたりまえのものだからである。その希少性が見えていないし、nation形成途上のありようもわかっていない。他方、容易にnationを形成できないほかの国々は、そんな日本に畏怖を抱き、羨望嫉視せざるをえないわけである。

「汝自身を知れ」とは哲学的な、精神的な命題にとどまらない。国際関係においてもしかり、自国を知ってこそ、外国を知ることができる。それは当然、けれどもそれ以上に、他者を知らなくては、自己が何たるかもわからない。こちたき「ナショナリズム」論議や「国民国家論」もけっこうだが、しかし日本人が自身を知るには、海の向こうの大陸をまず知らねばなるまい。それは日中対立が深まった今、もはや観念論議ですまない、現実に切迫した課題なのである。

【城山英巳さんによる「中国の膨張を止められるか(1)」はこちら