近くて遠い国、中国。尊大とも思える外交上の振る舞いの理由はかの国の長き歴史の中で培われた、ある思想にあった

 

「ナショナリズム」は扱いが難しい。政治や外交の局面でもそうだろうが、学問上の考察や討論においても、そうである。「ナショナリズム」とは何か、と聞かれて、どこの誰にでも納得できる説明を用意するのは、至難のわざだといわざるをえない。

 ひとつは、好むと好まざるとにかかわらず、国民国家という制度・体制が、現代の世界を覆っており、それに不可分、不可欠な構成要素がナショナリズムだからである。あらゆる国にその国なりのナショナリズムがあるといってよい。極論すれば、二百に近い国の数だけ、異なるナショナリズムが存在する、という現象を呈するので、その間には、ほとんど同じ、近似する事例もあれば、径庭ただならぬ大きな差異もありうる。

 そこで、分析を容易にするため、一般に通じる学問的な定義がなされる。とはいえ、こちらもディシプリンによって、あるいは論者によって、その論理や措辞、表現がまちまちで、説明の数だけ定義がある、といっても過言ではない。かくて多岐にわたる事象と理論が重なり合い、かえって扱いにくさを増幅している。

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 そのためここでは、ごくわかりやすく、たとえば司馬遼太郎の表現を借りて、「土俗的」な「自己愛」という「感情」の延長に、一国規模のナショナリズムがあると考えてみたい。これなら、どんな国にも共通するだろう。

 ただし今日、それを「自己愛」とか「贔屓」とかいわずに、「ナショナリズム」という語彙で表現するのには、やはり理由がある。当然ながら、現在あらゆる国が採用するnation(国民国家)という西欧の発明物と不可分だからである。いかに「自己愛」や「贔屓」の延長ではあっても、そうした「土俗」の「感情」だけで、「ナショナリズム」を考え、語ることはできない。西欧的なnationの属性を離れるわけにはいかないのである。

 そうすると、まず前提として、nationの基本をおさえる必要がある。画定された領土、ついでそこに住む国民、そしてそれらに及ぼされる主権。いずれも一体・均質・一元的というのが原則、条件である。

 くわえて、外との関係がある。そもそも自己と他者との関係の持ち方というものは、ひとつにかぎられない。ただし上のような西欧的なnationの場合、自他ともにnationであれば、両者は対等であって、それをベースに国際関係・国際社会が存在しうる、というのが特徴である。もちろん、現代世界の通則でもある。

「ナショナリズム」という以上は、要件の主権・領土・国民をそなえたnationどうし、対等の関係が前提にならねばならない。そのうえでの「自己愛」である。さもなくば、他者と区別される国家の規模でまとまり、かつ国際関係のなかで存立できる「自己愛」にならない。それなら、「土俗」がそうした属性・原則と矛盾する「自己愛」だった場合、果たしてどうなるか。

 以上は眼前にある国民国家・国際関係をごく平易に説いたにすぎない。なぜこんなわかりきったことをクドクドいわねばならないのか。そうした事情が必ずしも明確に自覚、もしくは実践されていない場所・世界が厳存するからである。中国大陸である。

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