「土俗」の中華思想
中国の「土俗的」な「自己愛」は、一般に中華思想と呼ばれる。「フランスの中華思想」などと、譬喩に使われることの多い概念なので、こちらも扱いにくい。ひとまず歴史的な、本来の意味をおさえておきたい。
この考え方は「礼」を基軸とする。礼儀というのは、お辞儀する、頭を下げる動作からもわかるとおり、上下関係をベースとする。そこに対等の関係は、ほとんど想定されない。自分はへりくだり、相手をもち上げる。ごく卑近な人間関係なら、われわれも日夜実践していて、すぐわかるところだが、それを集団・国どうしの関係でも同じく適用するのが、東アジアの伝統だった。nationどうしの対等を原則とする国際関係とは、あたかも正反対、対極に位置する。
では、その上下はいかに決まるのか。より「仁」「徳」を有する、いいかえれば、儒教の教義をより身につけている、ということが第一の基準である。その地位は中国の天子・王朝が史上ほぼ独占していた。「中華」というのは、それをあらわす概念表現なのである。
そんな「中華」に礼を履行する具体的な手続・パフォーマンスとして、たとえば「朝貢」というものがあった。貢ぎ物をもって頭を下げにいくことであり、これを実践しておけば、上下関係が明確になって、礼にかなう。
現代のわれわれでも、礼儀作法を知らないと、白い眼でみられるし、ひどければ、批判・指弾を受ける。以前の東アジアでも、礼にかなわず、上に立つ者に頭を下げない場合は、その非を鳴らし、制裁を下してもかまわないことになっていた。これを「問罪」といったり、もう少ししかつめらしく「尊王攘夷」といったりする。「夷」とは「中華」の対立概念、野蛮人の謂だが、礼を知らない、無礼だということで打ち払ってよいわけである。
「中華」あるいは「朝貢」といって難しければ、ごくひらたく「上から目線」と解すればよい。ただ、それを思いあがった傲慢とみては、やや違う。この「上から目線」は、朱子学的なイデオロギーの基準からすれば、説得力ある態度である。その教義・基準は長く数えれば二千年、短く数えても六百年ものあいだ、思想として信ぜられ、秩序として働いてきた。したがって、それに応じた態度・行動、つまり「上から目線」も、歴史的な属性をなしている。DNA的というべきか、それこそお国柄なのであって、そうしたいきさつを理解しておかねばならない。
もっとも、中国大陸も現在、国民国家の体制を採用している。nation、国際関係の観念が中国大陸に入ってきたのは一九世紀の後半、中華思想やそれにもとづく秩序を放棄してnationになりはじめたのは、さらにそのあと、二〇世紀に入ってから。まだ百年あまりしか経ていない。いかにも板についていないのである。