吉田調書の内容は“既報”だらけ
だが、社を挙げての高評価とは裏腹に、原発関連の取材に関わってきた社内他部門の記者の間では、少しずつ冷ややかな声も聞かれるようになった。
福島第一原発の職員全体の九割、六百五十人もが命令に背いて“逃げた”という一報を見て、ある記者は「大丈夫か?」と不安の呟きを同僚とのメールで交わしていた。これほどの大人数による命令違反が事実なら、三年間もそのことが外部に漏れずにいた、というのは考えにくいのではないか……。K記者らの第一報でも、肝心要となる「命令違反」に関しては、リードの文章でしか触れられていない。対応するくだりが本文中にまったく出て来ないのである。
取材班は、録音が残されていない東電テレビ会議について、吉田所長が「構内の一部での退避を所員に命じた」と発言していたとする東電関係者のメモを入手していた。それが補強材料になると思ったのだろう。だが、このメモは原発事故直後に社会部の記者が東電関係者から入手したものだ。それを社内ルートで譲り受けただけであり、独自で入手したものではなかった。
「所長命令に違反 原発撤退」の裏付けとなるデータは、それだけだった。当時、事故現場にいた職員からはただの一人からも証言をとっていなかった。記事にはまったく福島の「現場」が登場しないのである。
いや、それどころか吉田調書には、被災後三年を経た時点で、新事実はなかったと言ってもいい。
自身も原発報道に携わってきた社内のある記者は、各メディアが過去に報じた記事と、一連の“スクープ報道”を照らし合わせてみた。すると、続報で報じられた事柄も、すべて事故からほどない時期、さまざまなメディアで報じられていたことが判明した。
たとえば第二報(21日付朝刊一面)は「ドライベント、福島第一3号機で準備 震災3日後、大量被曝の恐れ 吉田調書で判明」と報じた。原子炉格納容器の気圧を水を通さずに抜くことを当時の東電は検討しており、高濃度の放射性物質が外部にばら撒かれる危険性があったという報道である。
だが、東京新聞は同年四月六日付記事で、三号機でドライベントが検討されていたことを報じている。また二号機ではドライベントが実際に行われた(結果は失敗)ことは、震災直後の一一年三月~五月にかけて各紙が記事にしている。
吉田所長は生前、匿名での対応も含め、何度となく複数メディアの取材に応じていた。ほとんどのことは早い段階で明らかにされていたのである。
結局のところ、こじつけで作られた「命令違反」という要素を取り除けば、吉田調書スクープで報じられた内容はすべて既報のネタ、周知の事実だけだった。のちに記事の取り消し処分を決めた社内検証でも、この点は確認されている。
しかし、社を挙げて称賛されている記事である。記事への批判は上層部のメンツにもかかわるため、表立って吉田調書報道への異論を述べることはタブーだった。三年連続の新聞協会賞――そんな期待が高まる中、「吉田調書を精査したところ、実はさしたる新情報はなかった」。小心翼々たる朝日の社員に果たしてそんなことが言い出せるだろうか。あるいは思いきって「王様は裸だ」と叫んだところで、それで上に睨まれれば、人事で報復される可能性も高いのだ。
誰も止められないまま、「あとは新聞協会賞受賞を待つばかり」という空気が醸成されてゆく。
絶賛から一転して大批判へ
六月になると、週刊誌に批判記事が出はじめた。朝日は訴訟をチラつかせた抗議文を送りつけるなど、強気の対応をしてみせたが、一旦ケチがつき始めると、社内の高評価も一転して雲行きが怪しくなる。それでも朝日は今年度の新聞協会賞の候補として、特報部が吉田調書報道を、社会部は「徳洲会から猪瀬直樹都知事への五千万円提供報道」を申請した(結果的に猪瀬知事献金報道が受賞)。
七月に入ると、K、M両記者は週刊誌からの批判に対応する形で、第一報を部分的に軌道修正する続報の掲載を申し出た。「訂正」ではなく、「修正」である。だが、上層部からの許可は出なかった。八月末、九月初めにも掲載が検討されたのだが、やはり実現せずに終わった。七月に続報の掲載が見送られた際には、「新聞協会賞の選考が終わるまで待て」という上層部からの説明があった、とも囁かれている。外部からの批判の声の高まりに、少しずつ特報部チームの立場は危うくなってゆく。
そして八月。慰安婦報道の検証記事掲載をきっかけに朝日批判が高まり、八月末には産経、読売両紙によってついに吉田調書報道への批判記事が掲載された。その間、K、M両記者や特報部を取り巻く環境は一変し、いつの間にか“まな板のコイ”のような状態に置かれたのだった。第一報の直後には、社長以下、上層部の“お墨付きを得た大手柄”と持ち上げられていた両記者だが、こうなってしまうと反対に、朝日のメンツを潰した、という十字架まで背負わされてしまう。社長以下、編集幹部がみな絶賛していたのに、今度はみな一斉に批判の矛先を彼らに向け始めたのだ。