注目したいのは、転用石が天守台の南側に集中していること。現在、石垣に含まれている転用石は181点で、そのうち51.9パーセントの94点が天守台南側に集中しています。この部分こそ、光秀時代に築かれたとみられる天守台。現在の天守を西側から見ると、左側に継ぎ足しを示す斜めの線が確認できます。
この線を境に、向かって右側(南側)が、光秀時代に積まれたと考えられる天守台です。確認されている紀年銘は、延文4年(1359)から天正3年(1575)まで。現在確認されているうち、もっとも新しい天正3年の紀年銘は天守台南側の天端の地輪にあり、光秀による築城時期と合致します。
転用石から読み解く「信長と光秀の関係」とは?
転用石は、おもに石材不足のため周辺から集められたと考えられます。もともとこの地には在地土豪である塩見氏(横山氏)の横山城があったとも伝わり、関連する寺院の存在も想定できます。福知山城の改修時には、城の北西にある山岳修験の聖地、三岳山周辺の天台系寺院を破却した伝承もあります。三岳山周辺には石工集団がいたようで、福知山城の石垣づくりに関わった可能性も考えられます。
創建時から天守台があること、石材をかき集めてまで石垣を積んだところに、光秀の城たる凄さと意義があります。城に天守や石垣を導入したのは、ほかでもない信長です。信長が安土城(滋賀県近江八幡市)を築き始めたのは天正4年(1576)ですから、福知山城の築城とほぼ同時期。信長が新しい城づくりを進める傍ら、光秀も信長流の城づくりを並行していたことになります。
城を囲む高い石垣は、信長の城にとって必需品。信長家臣の城として恥ずかしくないよう、光秀は石材をかき集めて石垣づくりの立派な城を築いたのだと思われます。