いよいよ、明智光秀が主人公の大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が始まりました。「本能寺の変で信長を倒した謀反人」として知られる光秀ですが、実は出自もはっきりせず、信長の家臣となるまでの前半生はよくわからない謎めいた人物です。

 ただ、信長の家臣となった光秀が関わった城を歩いていると、光秀が信長にかなり近しい重臣だったことがわかります。信長が推し進めた最先端の城づくりや城下町づくりを、いち早く取り入れているのが光秀の城なのです。福知山城も、そのひとつといえます。

福知山城の天守。昭和61年(1986)に建てられた。

 金ヶ崎の戦いや比叡山焼き討ちで活躍したことで信長から高い評価を得た光秀は、天正3年(1575)から丹波攻略を命じられます。天正7年(1579)に平定した後、丹波の支配拠点のひとつとして整備されたのが福知山城と城下町でした。娘婿の明智秀満が城代として治めましたが、城や城下町づくりには光秀も関わり、地子銭(宅地税)を免除するなどの基礎固めを行ったとされています。「福知山」の地名をつけたのは光秀で、和泉式部の歌集にある「吹風山」に「福知」という文字を置いたといわれます。

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墓所を破壊して集められた「石塔」で組まれた石垣

 福知山城の最大の特徴は、なんといっても「転用石」です。宝篋印塔や五輪塔、石仏、石臼などを、石垣の石材として利用しています。その総数は、なんと500点以上にも及びます。五輪塔の地輪が約250点、宝篋印塔の基礎が約35点。少なくとも300基程度の石塔が破壊されて集められたようです。推定2メートルを超える立派な宝篋印塔もあり、相当なランクの墓所が破壊されたと思われます。

転用石。積みにくい笠部などは、割って内部に詰められていると考えられる。
積み足しを示す、斜めの線。線を境に、向かって右側が光秀時代とみられる天守台の石垣。