「文藝」の最終選考に残ったという留守電は別の世界から電話がかかってきたという感じだった

――実際に応募を始めたのは。

青山 大学2年生の時にはじめて小説をひとつ書きあげて、文芸誌に応募しました。一次にも掠らなかったんですが、満足感はありました。自分がパソコンで書いた文章がプリンターから出てくると、なんだかちゃんとした小説に見えるという新鮮な喜びがあって、それをもっと味わいたくて長いものを書いたんです。作品としてはいいのか悪いのかもわからなかったけれど、とにかくひとつ何かを書き上げたんだという達成感がありました。

――じゃあ、その次に書いたものを「文藝」に送り、卒業して旅行代理店に就職したと思ったら、最終選考に残りましたよという連絡がきたという流れですか。

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青山 そうです。最初の連絡は、会社帰りの下北沢駅で受け取ったんです。会社の先輩が日本舞踊の公演に出るから、同期の子と観に行った時に着信があって。知らない電話番号からだったので、そこにいた同期の子に「知らない人から電話が来た」と言ったら「それは出ちゃ駄目だよ」と言われ、「そうだよね」と、その後もずっと無視していたんです。

 そうしたら、数日後に留守電にメッセージが入っていたんです。河出書房の編集者さんからだったのですが、その留守電を聞いたのが、忘れもしない、たまたま実家に帰省していた時で、母に候補になったことを話そうと思ったけれど、言葉が出てこなくて「か、か、かかか……」みたいになってしまって(笑)。

――人間って本当にそうなるんですね(笑)。

青山 そうなんです。留守電には「折り返し電話をください」とあったので、電話して「先ほどお電話をいただいた青山と申します」と言ったら、「お前何言ってるんだ」と言われて。父親だったんですよ。動揺しちゃって、父に電話しちゃっていたんです(笑)。あんなに動揺したのは人生ではじめての経験でした。自分が小説を書いたことは自分で分かっていますが、それが現実の生活に関わってくるということにびっくりしたんですね。急に別の世界から電話がかかってきたという感じでした。

青山七恵さん ©榎本麻美/文藝春秋

――芥川賞を受賞された時も「旅行代理店勤務の青山さん」と紹介されていましたよね。デビューが決まっても仕事は辞めなかったわけですね。

青山 結局4年くらい勤めていました。働きながら小説を書くのはそんなに大変だった記憶はないんです。今考えると、よくそんなことができたなと思いますね。土曜日出勤の時もあったし、日曜日はたいてい遊びにでかけていたし、いつ書いていたんだろうって(笑)。

――小説を書いて応募する時に、純文学とかエンタメといったジャンルは意識されましたか。

青山 そういうことも全然分かっていなかったですね。高校生のときフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を読んで、小説家になりたいとより強く意識したんですが、純文学をやろう、という意識はなかったです。ただ、あの小説に何が書かれているのか、当時の私にはよくわからなかったけれども、それでも自分が惹かれるのはこういうものだと感覚ではっきり悟った。なおかつサガンがこういう小説を10代で書いたことを知って、自分も本当に書きたいと思っているのなら、ぼやぼやしていないでできるだけ早いうちに書かなきゃダメだと思ったんです。

 それで大学に入って小説を書きはじめたとき、文芸誌というものがあることに気づいて、その文芸誌には新人賞というものがあることにも気づいて、じゃあ応募してみようと決めました。文藝に応募したのは、並んでいる文芸誌の中で表紙がいちばんかっこよかったし、ちょうど綿矢りささんが文藝賞を受賞されたころで、若い人の作品も読んでくれる賞なのかな、という印象があったからです。